GO
|
||
著者
|
金城一紀 | |
出版社
|
講談社 | |
定価
|
本体価格 1400円+税 | |
第一刷発行
|
2001/10/03 | |
ISBN4−06−210054−1 | ||
|
||
僕はアッケなく恋に落ちた。彼女はムチャクチャ可愛らしい日本人だった。Non‐Stop、既視感Zero、新時代の扉をケリとばす革命的“在日”ポップ・ノベルの大傑作。サビついた神話は過去のもの。瑞々しいエッジで「いま」を切り開く新鋭、爽快にデビュー! |
「ハワイか……」 オヤジが初めて僕の前で『ハワイ』という言葉を口にしたのは、僕が十四歳のお正月の ことで、その時、テレビの画面では、美人女優三人がハワイに行き、ただひたすら「きれ い!おいしい!きもちいい!」を連呼するお正月特番が映し出されていた。 ちなみ に、それまで、我が家ではハワイは『堕落した資本主義の象徴』と呼ばれていた。 当時、オヤジは五十四歳で、朝鮮籍を持つ、いわゆる《在日朝鮮人》で、マルクスを信 奉する共産主義者だった−。 ここでまず断っておきたいのだげれど、これは僕の恋愛に関する物語だ。その恋愛に、 共産主義やら民主主義やら資本主義やら平和主義やら一点豪華主義やら菜食主義やら、と にかく、一切の『主義』は関わってこない。 念のため。 さて、オヤジが『ハワイ』を口にした時、小さくガッツポーズをしたオフクロ(朝鮮籍) は、のちに僕にこう言った。 「あの人も歳にはかなわなかったのよ」 その年のお正月はものすごい寒波に襲われていて、五十を過ぎているオヤジの身にはか なり応えたらしく、やたらと「関節が……」と切たそうにつぶやきながら体をさすってい た。オヤジは温暖な気候を持つ韓国の済州島に生まれ、子供時代を過ごしていた。ちなみ に、済州島は『東洋のハワイ』を自称している。 一方、日本で生まれ、日本で育ち、十九歳の時に御徒町のアメ横でオヤジにナンパされ て、二十歳で僕を生んだオフクロは、オヤジが転びかかっているのを見逃さず、素早く後 ろに回り込み、でたらめに背中を押した。 「ベルリンの壁は崩れたし、ソ連ももうないのよ。この前テレビで言ってたけど、ソ連が 崩壊したのは寒さが原因らしいわよ。寒さって、人の心を凍らせるのよ。主義も凍らせて しまうのよ……」 哀切のこもった口調だった。そのまま続けていたら『ドナドナ』でも歌い出しそうな勢 いだった。 うつむき加減でオフクロの言葉を聞いていたオヤジが顔を上げ、テレビの画面に視線を 戻した時、いつの問にか水着姿になっていた美人女優たちが、オヤジにとろけそうな笑顔 を向けながら、「アロハー・!!」と呼びかけた。 「アロハ・:・:」 断末魔のつぶやきだった。オヤジ は深く長いため息をつき、そして、転んだ。転んで、起き上がったあとのオヤジの動作は機敏で迅速だった。 お正月休みが終わってすぐ、バワイに行くために朝鮮籍から韓国籍に変える手続きを始めた。 つまらない話なので、なるべく長くならないように説明しようと思う。 理由は簡単。 両親が日本の軍需工場に徴用されたので、オヤジは子供の頃に両親と一緒に日本に渡ってきた。 日本にいてもいいけど、どちらかの国籍を選べ、と迫られたオヤジは朝鮮籍を選ぶことにした。 若くしてふたつ目の国籍を持ったオヤジは歳を取り、ハワイのためにみっつ目の国籍取得に乗り出した。 最近では相当時間をかければ国交を結んでいない国のビザも下りないこともないらしいけれど、どれだけの時間がかかるか予測が立てられないし、手続きがやたらと面倒臭いのだ。 ここでまたつまらない説明。これも面白く話せるかどうか……。 ふたつの機関は北朝鮮と韓国の関係を否応なく反映するわけで、だから、総連と民団も『ロミオとジュリエヅト』のモンタギューとキャピュレットの両家のように、時々小競り合いなんかをしながら、つかず離れずで反目し合っている。 仲問である《在日朝鮮人》の権利獲得のため、仕事の合間に必死に活動した。健全な組織運営のため、と言われたので、多くの、本当に多くのお金も寄付をした。 そして、北朝鮮と総連に失望を感じている時、オヤジはハワイの引力に吸い寄せられた。 その民団の幹部は、オヤジが総連の活動をまだバリバリやっている頃に、「我々のスパイになってくれたいか」という、なかなかスリリングな話を持ちかけてきた奴だった。もちろん、オヤジは断った(らしい)。 民団の幹部の根回しのおかげで、申請はなんの問題もなく、たったの二ヵ月で下りた。総連の活動をバリバリやっていた人間(しかもマルクス主義者)に申請が下りた中では、最短記録ではないだろうか。 でも、ちっとも嬉しそうではなかった。 さて、こうしてあとは夢のハワイに飛ぶだけにたったはずのオヤジだったが、最後にやっておかなくてはならないことがあった。 これは面白くしようがない、どうやっても。 その《帰国運動》っていうのは、北朝鮮が『地上の楽園』で素晴らしい場所だから、日本で虐げられている《在日朝鮮人》の方々よ一緒にこっちで頑張ろう、おいでませ、という運動だった。 その中に、僕の叔父さんもいたというわけだ。 唐突に韓国籍に変え、結果的に総連を裏切ることになったオヤジは、北朝鮮にいる叔父さんが気になって仕方がなかったのだろう。 そして、二人とも、もう若くはなかった。 トラックと一緒に、手紙も添えた。韓国籍に変えた、と書いた手紙を。 うちの玄関にはいま、首にバイビスカスのレイをかけ、腰みのをつけた小麦色の肌の可愛い女の子にほっぺにキスをされて、こぼれ落ちそうな笑みを浮かべながらピースサインをしているオヤジの大きな写真が、額に入って飾られている。 クソオヤジめ。 (本文より引用)
|
|||
|
このページの画像、本文からの引用は出版社、または、著者のご了解を得ています。 Copyright (C) 2001 books ruhe. All rights reserved. 無断でコピー、転写、リンク等、一切をお断りします。 |