月魚
 
  水の底には秘密がひそむ。 * 書き下ろし * 新進気鋭の女性作家が描く「罪」と「再生」の青春日記   
著者
三浦しをん
出版社
角川書店
定価
本体価格 1800円+税
第一刷発行
2001/5/25
ISBN4−04−873288−9

その細い道の先に、オレンジ色の明かりが灯った。
古書店『無窮堂』の外灯だ。
瀬名垣太一は立ち止まり、煙草に火をつけた。

夕闇が迫っている。
道の両側は、都心からの距離を考えれば今どき珍しい、濃縮された闇を貯蔵する雑木林だ。
街灯はあるが、それも木々に覆い隠されている。

瀬名垣の訪れを予知したかのごとく、『無窮堂』の灯りは薄暗い道を淡い光で照らした。
霧の港で船を導く、灯台の灯火。
寄港の許しを請う合図のように、瀬名垣の口元の小さな赤い火が明滅した。

道は『無窮堂』に近づくにつれ、わずかずつだが細くなる。
昼間にこの道を行くと遠近感が狂い、実際以上に目的地が遠く感じられるが、今日のような日没後には道幅など些細なことだ。

外灯を頼りに、ひたすら歩めばいい。『無窮堂』は南北に走る細い道の北の突き当たりにある。
両側に感じていた雑木林の圧迫感が消え、足もとは砂利の感触になった。
古書店の敷地の前を東西に走る農道のような砂利道だ。

店の入り口にかけられた木の看板が光輪の中に白く浮かび上がる。
『古書無窮堂』という文字が、夜の色でしたためられている。
瀬名垣は砂利道を三歩で横断すると、ひんやりとした鉄の門扉に手をかけた。

 

腹までの高さの小さな門は甲高い悲鳴のような音を立てたが、さしたる抵抗も見せずに開いた。
すでに店じまいの用意をしているのか、硝子張りの引き戸は閉ざされ、日よけの黒いカーテンが引かれていた。
瀬名垣はカーテンの隙間から中を覗き込む。

人の動く気配はない。
だが、この時間ならまだ友人は、母屋に引っ込んではいないはずだ。
店舗の奥にある書庫にいるだろうと見当をつけ、硝子戸を叩いた。

「お-い、真志喜。開けてくれ」硝子を震わせるほどの大声に、中で乱暴な足音がした。
瀬名垣は煙草をくわえていることに気づき、慌てて短くなったそれをつまむ。

かがんで足もとの飛び石でねじ消そうとしたとき、カーテンが開き、店内の明かりがこぼれた。本田真志喜が、かがんでいる瀬名垣を不機嫌そうに見下ろし、無言のままカーテンを閉めた。
「ちょっとちょっと。それはつれないんじゃないの?」瀬名垣はまたもや両掌で硝子戸を叩き、情けない声を上げた。

「真志喜ちゃ一ん、開けてくれよ。肉買ってきたぜ、肉」再びカーテンが開き、硝子戸の鍵がはずされる。瀬名垣はようやく天の岩戸を引き開けた。真志喜はいつもどおり、粋に和服を着こなしていた。葡萄茶の着流しに、黒の細帯。いつの時代の剣客かと思われる姿だが、色素の薄い彼に、その格好は似合っていた。
「煙草は吸うなと言ってるだろう」

切れ長の目が細められ、茶色の瞳が不機嫌な色を宿す。瀬名垣はわざとらしく両手を挙げ、軽く降参の仕草をしてみせた。
「わかってるよ。ちゃんと消しただろ?」
そう言って、真志喜の白い額に落ちかかる淡い色の髪に触れる。

「いつもながら、俺の健康を気遣ってくれちゃって」「
馬鹿か」
真志喜は氷ですらもう少し温かいだろうと思わせる絶対零度のそっけなさで首を一振りした。瀬名垣の手から髪はするりと逃げる。

 

 

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