センセイの鞄
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著者
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川上弘美 | |||||
出版社
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平凡社 | |||||
定価
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本体価格 1400円+税 | |||||
第一刷発行
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2001/6/25 | |||||
ISBN4−582−82961−9 |
■文学賞 2001年 第37回 谷崎潤一郎賞受賞 インタビュー |
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月と電池 正式には松本春綱先生であるが、センセイ、とわたしは呼ぶ。「先生」でもなく、「せんせい」でもなく、カタカナで「センセイ」だ。 担任ではなかったし、国語の授業を特に熱心に聞いたこともなかったから、センセイのことはさほど印象には残っていなかった。 数年前に駅前の一杯飲み屋で隣あわせて以来、ちょくちょく往来するようになった。 「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう」カウンターに座りざまにわたしが頼むのとほぼ同時に隣の背筋のご老体も、「塩らっきょ。きんぴら蓮根。まぐろ納豆」と頼んだ。 どこかでこの顔は、と迷っているうちに、センセイの方から、「大町ツキコさんですね」と口を開いた。 「はあ」曖昧に答え、わたしはセンセイをさらに眺めた。 センセイは必ず黒板拭きを持ちながら板書した。 生徒に向かい講義する間も、黒板拭きを離さなかった。 「キミは女のくせに一人でこういう店に来るんですね」センセイはさらしくじらの最後の一片にしずしずと酢味噌をからめ、箸で口に持っていきながら言った。 高校時代の先生だったことは思い出したが、名前が出てこなかった。 「あのころ、キミはおさげにしていたでしょう」 「店に出入りするキミに見覚えがあったので」「はあ」 「失敬、失敬」 「名簿とアルバムを見て、確かめました」 「キミは顔が変わりませんね」 以来センセイはセンセイになった。 次に同じ店で会って飲んだときには、わたしが勘定をした。 以来そのやりかたが続いている。 肴の好みだけでない、人との間のとりかたも、似ているのにちがいない。 センセイの家へは、何回か行ったことがある。 まれに三軒目四軒目までまわることがあり、その後はたいがいセンセイの家で最後の一杯をしめくくることになる。 夫人は亡くなったと聞いていた。 思ったよりも雑然としていた。 玄関につづく古いソファのあるじゅうたん敷きの部屋は、しんとして何の気配もなかったが、次の八畳間には本やら原稿用紙やら新聞やらが散らばっていた。 「どうぞ召し上がれ」と言い残し、センセイはいったん台所に入った。八畳間は庭に向いていた。雨戸が一枚ぶんだけ開かれている。ガラス戸越しに、木々の枝がうすぽんやりと浮かんで見えた。 花の季節ではないので、何の木だかわからない。 鮭をほぐしたものと柿の種を盆に載せてきたセンセイに、「お庭の木は何ですか」と聞くと、「桜ばっかりですよ」と答えた。 「ぜんぶがぜんぶ。妻が好きで」
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