殿下の料理番
 
  昭和天皇、今上陛下、皇太子殿下の三代にわたって仕えた宮中料理番、二十六年間の日々。特に皇太子ご夫妻ご成婚直前のお素顔、「食」を通した御所での日常が初めて明かされている。たとえば、皇太子さまが滝れられたコーヒー、雅子さまが作られたチキンカレーとオニオンスープ。そして、退官直前、両殿下が要望された「最後のリクエスト」など微笑ましいエピソードの数々……。さらに、これまで知りえなかった、宮中での食材の選び方、調理の仕方、厨房の様子などを事細かに紹介。  
著者
渡辺誠
出版社
小学館文庫/小学館
定価
本体価格 476円+税
第一刷発行
2002/1/1
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ISBN4−09−404165−6

プロローグ

コウノトリが舞い降りた日に

この本が出るころには、皇太子ご夫妻に新宮さまご誕生の喜ばしいニュースで大いに沸いていることでしょう。
かつて、記者会見の席で殿下が、「あまり周囲で波風が立ちますと、コウノトリのご機嫌を損ねるのではないか……」と、ユーモアまじりにお答えになられたころが懐かしく思い出されます。
当時、私はおふたりにお仕えして毎日のお食事を作る「料理番」でした。

私がお仕えすることになったのは、ちょうど殿下が独立されるときでした。
仮住まいの御所で、少ない職員でいろいろこなさなければならないという特殊な状況もあって、より身近に接し、お心に触れる機会が多かったことも、いま思えば幸いでした。
そして在職中に妃殿下をお迎えしておふたりの仲睦まじいお姿を拝見し、お暮らしが「家庭」という体裁を成していくのに触れることができたのも幸運だったと思います。

宮内庁大膳課に勤務していた二十六年間のあいだ、私は昭和天皇、今上陛下、そして皇太子殿下の三代にわたってお食事を作りつづけてきました。
昭和天皇にお仕えしたのは、私がまだ宮中のことを何も知らない駆け出しの時代から始まって、料理人になるために修業を積み、なんとかひとかどのものになるまでの十八年に及ぶ年月でした。

私は陛下のことが大好きでたいへんお慕いしていましたが、歳若い料理人の立場では、直接お言葉をかけていただくような機会もそう多くはありません。
たまにそんな光栄に浴しても、ただただ緊張して、畏まっていたことばかりが思い出されます。
その後、今上陛下(当時はまだ皇太子殿下でいらっしゃいました)のもとにお仕えするようになりましたが、それはわずか二年足らずの期間でした。

その環境の変化にようやく慣れたころ、昭和天皇が崩御されます。心の灯火が消えてしまったような大きな悲しみが宮内庁全体にも溢れ、私自身も料理人としての意欲を失い、辞めてしまおうかと考えたほどです。
そんなときに、現皇太子殿下のもとへの異動話が降って湧いたのです。

このころには私も齢を重ね、自分でメニューを考え、あれこれ采配する立場になっていました。
お側で接してみると、殿下は実に心温かく、男の私が惚れ込んでしまうような魅力に溢れた方でした。
「この方に喜んでいただける料理を作ろう!」一度は萎えかけた私の心に、いつしかこんな気持ちがふつふつと湧き起こり、以後、六年にわたって、料理人としてたいへんやり甲斐のある充実した日々を過ごさせていただくことができました。

私は大膳の職員(大膳がいかなるものかは、本文を読んでいただければおわかりいただけると思います)ですから、お食事以外のふだんのお暮らし向きについては、詳しくわかりません。
しかし、お食事という場を通じて私が接した天皇家ご一家は、常に思いやりに溢れ、家族の絆をとても大事になさっていらっしゃいました。
宮殿や御所の厨房での出来事、御用邸での思い出、ひとりの料理人として私が感じたことを語るなかで、そんなご一家の温かな素顔を感じ取っていただくことができるのではないかと思います。
両殿下がお父さま、お母さまとなられる日。

この待ちに待っていた日は、お妃報道が加熱するころからお仕えしていた私にとっては、ひときわ感慨深いものがあります。
この喜びをどう表現しようかと考えたとき、私がどんなお祝いの言葉を述べるよりも、どんな献上品を差し上げるよりも、おふたりのお口に合うお料理を召し上がっていただくことがいちばん私らしく、もっとも喜んでいただけるように思えました。

そこで、コウノトリが無事に舞い降りた日をお祝いして、私が両殿下のためにお作りしたいメニューをここに披露して、お祝いに代えさせていただくことにします。
どんなものを召し上がっていただこうかと、愉しく思いをめぐらしていると、どこからか、「渡辺さん、食材に無理はしないでください。
できる範囲のもので結構です」という耳慣れた殿下のお声が聞こえてくるような気がします。

いまはお側を離れ、一民間人となった私からの心をこめたお祝いですから、どうかお気遣いなさらずに私の料理を味わっていただきたいと思います。
心からの祝福をこめて。