世界がまるで変わってしまう一日がある。
ゆるやかな丘を越えて、いつの間にか分水嶺を渡ったように、運命の流れる先が変わってしまう。
名も知らぬ別な大洋にそそぐ流れだ。
くだらないポップスみたいに、いい女とのロマンチックな出会いとか、そういうんじゃない。
おれの場合、相手は七十近い男性だった。
そのジジイにたぶらかされて、たいていの日本国民より数年早く迷いこんだのは、マーケットという名前のジャングルだ。
すべての参加者がオオカミでも、カモでもある世界。
自己責任と市場主義、ヘッジファンドとロケット科学者、信用取引に電子マネー……そんな言葉はジジイにあうまで、開くこともない新聞の中面にばら撒かれた、ただの呪文だった。
数が歌い、グラフが踊るのを、おれは初めて知った。
ほんの数円の値動きで、手作りチョコレートを隣の席のガキに渡す小学生の女の子みたいにどきどきする。
縦一列に並んだ数字から、とろとろとうねる波の上げ下げと、おおきな潮目の変化を感じとれるようにもなった。
この狂った時代、どんなに逃げたってマーケットの影から出ることは、もう不可能なのだ。市 場の傘は世界を覆っている。
庶民の振りも、善良である振りも、無知である振りもすぐに通用しなくなるだろう。
市場は参加者の性格など問わない。
横並びのありふれた人生なんてお伽話に関心などもたない。
だから、ちょっとおれの話を聞いてみるといい。
絶対に損はさせない(もっともこの台詞は詐欺師と銀行員の決まり文句だ)。
ジジイがやったように、おれもあんたにマーケットという名の水晶玉を渡してやる。
そいつを高くかかげるか、足元で蹴りとばすか、それはあんたの自己責任において自由だ。
この話は、お役所が発表する統計をもとに、過去についてだけもっともらしく解説する学者たちの経済分析とは二百パーセント違う。
切れば傷口から、たっぷりと血と膿があふれ出す生きた経済がネタだ。
さあ取引を開始しよう。
おれの話は日本経済が破局に一番近づいた一九九八年、あのぼんやりとあたたかな春から始まる。
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「善良なるぅ、尾竹橋通り商店街の皆様、自転車はぁ、歩行者の邪魔にならぬよう、駐輪場にとめましょう」春は近いというのに、あいにくの曇り空だった。
低い雲に跳ね返されて、遠くからメガホンのだみ声が響いてくる。
喧しくてしょうがない。
いつものアホ右翼だった。
おれは通りに背をむけて、パチンコ屋の閉じたパイプシャッターと顔をあわせた。
「パチンコ遊戯店コスモスはぁ、十分な駐輪場の用意もせず、官憲への贈賄を繰り返しい、地域住民の反対を押し切り、新装開店を強行しようとしております。われわれはぁ、権力の介入には絶対に屈服しないぞ」
一拍おいて頭の悪そうなガキのコーラスが続いた。
「絶対にクップクしないぞ─―」
片側一車線の狭苦しい尾竹橋通りを、のろのろと走ってくる灰色のマイクロバスを盗み見た。
ルーフの四隅にのせられたメガホン。
金網のついたウインドー。
横腹には「大日本立志青雲会」の黒い文字。
地域住民とは笑わせる。
ナンバーを確かめると足立ナンバーではなく、なぜか横浜ナンバーだった。
歩道を歩くサラリーマンやおばちゃんは、拡声器の空爆も街宣車の徐行運転もまったく無視している。
あたりまえだ。
もうこのパフォーマンスは二週間も続いていた。
尾竹橋のたもとで折り返して、日に何十回となく街宣車は往復している。
右翼は通りの先にあるパチンコ屋コスモスの新装オープンに反対なのだ。
おれはパチンコ仲間から、警察の指導もあって、その店が暴力団絡みの景品屋と手を切ったという噂をきいていた。
ちなみにおれが並んでいるのは、コスモスの手前にあるニューパリスという別の店。
尾竹橋通りはコンビニとバチンコ屋だけが元気なさびれた下町の商店街だ。
東京都荒川区町屋、ここが上品で閑静な住宅街だなんていう東京っ子はいないだろう。
おれのワンルームマンションはまずいことに通りに面していて、週末の夜はほとんど間違いなく酔っ払いのケンカで叩きおこされる。
女にしては声が低いなと夢見心地できいていたら、ドスの利いた野太い雄叫びが窓ガラスを震わせたこともある。
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