文明の衝突
 
  混迷する世界を見据えた世界的知性の予測新世紀、国際惰勢と孤立する日本の立場はこうなる!西欧の最もすぐれた政治学者の一人、サム・ハンチントンが書いたこの刺激的な本は21世紀の世界政治の現実を理解するための枠絹みを提供して<れる。世界に新たな議論を巻き起こした書。20世紀はイデォロギーの対立から二度の世界大戦と半世紀にわたる冷戦を引き起こした。21世紀は文明の対立がどこでどのような問題を生むか、輿味と論争の絶えない素材を、本書は提供した。  
著者
サミュエル・ハンチントン (鈴木主税/訳)
出版社
集英社
定価
本体価格 2800円+税
第一刷発行
1998/06/30
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ISBN4−08−773292−4

日本語版への序文

サミュエル・P・バンチントン

一九九三年七月号の『フォーリン・アフェアーズ』誌に掲載された私の論文「文明の衝突?」は、世界中の多くの国で論議の的となり、論争を引き起こした。
そして、一九九六年十一月に刊行された本書は、さらにその論争を再燃させたわけである。
この本は二五の言語に翻訳されたが、いままた日本人の読者に読んでいただけるようになったことを、私は喜んでいる。

文明の衝突という私のテーゼにたいする論評の多くは、批判的なものだった。
しかし、二つの論点について注意を喚起しておく必要があるだろう。
第一に、この五年のあいだの多くの事態の推移から裏付けられることは、世界政治における文化一文明的なアプローチが妥当かつ有用だということである。
それには、以下の事柄が含まれる。

世界の多くの地域で異なった文明に属するグループ間の局地的な激しいフォルト・ライン(断層線)戦争が、ときに休戦で区切られたとはいえ、持続していること。
新たなフォルト・ライン戦争がコソボおよび中国の新彊ウイグル自治区で勃発したこと。
文明の境界線に沿ってヨーロッパの政治が再編成され、ポーランドとハンガリーおよびチェコ共和国がNATOに加盟するとともに、トルコは欧州連合(EU)から排除され、ギリシアとロシアが戦略的なパートナ一となったこと。

欧州連合やメルコスール(南米共同市場)のような単一文明圏が、経済的統合に向かって劇的に進歩をとげているのにたいし、APECやNAFTAのような多文明の連合には進歩が見られたいこと。
合法性およびアイデンティティについての世俗的な観念にたいしてインド、イスラエル、トルコなどの国々における宗教的な政治運動が強い疑念をつきつけていること。
非イスラム国とかかわるうえで、イスラム杜会がますます共同歩調をとるようになったこと。

ヨーロッパおよび北米への非西欧人の移民をめぐって軋轢が増大していること。
世界の諸問題にたいして大国としての中国の地位が高まりつづけるとともに、中国とイランおよびパキスタンのあいだの儒教-イスラム・コネクションが強化されていること。
一九九〇年から九一年にかけての反イラク連合が崩壊し、クウェートを除くアラブ諸国が一九九八年のイラクにたいする軍事行動に反対し、アメリカ合衆国はイギリス、オーストラリア、カナダなど文化的に最も近い国々からしか軍事的な支援を得られなかったこと。

ロシアが「プリマコフ・ドクトリン」を採択し、ロシアが西欧諸国のコミュニティに加わる見込みがなくなったこと。
アフリカにおいて南アとナイジェリアが、ラテンアメリカにおいてブラジルが、それぞれ中核国として頭角をあらわしつつあること、などである。
もちろん、文明的なアプローチで国際関係における大きな進展のすべてを説明できないことは明らかである。

しかし、過去五年のさまざまた事件によって示されているように、それがすぐれた視点をあたえてくれ、世界政治の場における大きな変化を理解しやすくしてくれることはたしかである。
この五年間における第二の重要な進展は、異なった文明に属するグループのあいだの衝突を阻止し、封じ込める必要性にたいする認識が高まっていることである。
ドイツとイランの大統領を含むさまざまな国の政治指導者が「文明間の対話」を呼びかけ、危機感をいだいた多くのグループが会議やセミナーを開いて、文明間の相違を小さくする道を探るとともに、文明の共通性を増進させようとしている。

私は少なくとも週に二回ないし二回、そのようなミーティングヘの出席を求められている。
私が所長をつとめるハーヴァードの国際および地域研究アカデミーは一九九七年に大規模な国際会議を主催し、すべての主要な文明圏の代表を招いて現在の国際システムにたいするそれぞれの杜会の見解を述べてもらった。

日本を代表してこの会合に出席したのは、小和田恒国連大使と猪口孝教授であった。このような交流によって生まれる建設的な方策が異なった文化をもつ人びとのあいだの理解を高めるのである。
つまるところ、私が論文と本で発した警告は、建設的なインパクトとなり、世界の危険の主要な源に注目させるとともに、人びとにその危険を小さくしようとする努力をうながしたのではないかと思う。

文明の衝突というテーゼは、日本にとって重要な二つの意味がある。第一に、それが日本は独自の文明をもつかどうかという疑間をかきたてたことである。
オズワルド・シュペングラーを含む少数の文明史家が主張するところによれば、日本が独自の文明をもつようになったのは紀元五世紀ごろだったという。
私がその立場をとるのは、日本の文明が基本的な側面で中国の文明と異なるからである。

それに加えて、日本が明らかに前世紀に近代化をとげた一方で、日本の文明と文化は西欧のそれと異なったままである。
日本は近代化されたが、西欧にならなかったのだ。
第二に、世界のすべての主要な文明には、ニカ国ないしそれ以上の国々が含まれている。日本がユニークなのは、日本国と日本文明が合致しているからである。

そのことによって日本は孤立しており、世界のいかなる他国とも文化的に密接なつながりをもたない。さらに、日本のディアスポラ(移住者集団)はアメリカ、ブラジル、ペルーなどいくつかの国に存在するが、いずれも少数で、移住先の杜会に同化する傾向がある。文化が提携をうながす世界にあって、日本は、現在アメリカとイギリス、フランスとドイツ、ロシアとギリシア、中国とシンガポールのあいだに存在するような、緊密な文化的パートナーシップを結べないのである。

そのために、日本の他国との関係は文化的な紐帯ではなく、安全保障および経済的な利害によって形成されることになる。
しかし、それと同時に、日本は自国の利益のみを顧慮して行動することもでき、他国と同じ文化を共有することから生ずる義務に縛られることがない。
その意味で、日本は他の国々がもちえない行動の自由をほしいままにできる。

そして、もちろん、本書で指摘したように、国際的な存在になって以来、日本は世界の問題に支配的な力をもつと思われる国と手を結ぶのが自国の利益にかなうと考えてきた。
第一次世界大戦以前のイギリス、大戦間の時代におけるファシスト国家、第二次世界大戦後のアメリカである。
中国が大国として発展しつづければ、中国を東アジアの覇権国として、アメリカを世界の覇権国として処遇しなければならないという問題にぶつからざるをえない。

これをうまくやってのけるかどうかが、東アジアと世界の平和を維持するうえで決定的な要因になるだろう。
したがって、本書が日本で刊行されることから、日本の人びとのあいだに文明としての日本の性格、多極的で多文明の世界における日本の地位などをめぐって真剣な議論がうながされることを、著者として希望するものである。

一九九八年五月

 

 

 

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