オウムと私
 
  私は、父が医師、母が薬剤師の開業医の家庭に、六人兄弟の五番目として、昭和二十二年一月二十三日、東京で生まれました。そして四十八年後の三月二十日、地下鉄でサリンを撒くに至るまで、優しく有能な心臓外科医は、なぜオウムに入り、狡猜な教祖に馬扁されていったのか。獄中で全存在を賭して綴った悔恨の手記  
著者
林郁夫
出版社
文春文庫/文藝春秋
定価
本体価格 752円+税
第一刷発行
2000/10/10
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ISBN4−16−765617−5

医家に生まれて

私は、父が医師、母が薬剤師の開業医の家庭に、六人兄弟の五番目として、昭和二十二年一月二十三日、東京で生まれました。
父は農家の次男として生まれ、農作業のかたわら苦学して医師の資格を得たそうです。
母は裕福でなくとも、時代や環境に流されず生きる誇りをもつように育てられたことを感じさせました。

父も母も兄姉から援助を受けて学んだことや、その兄姉に郷里の篤志家が援助してくれたことを恩として感じ、私たち兄弟によく話してくれました。
私が生まれたのは、社会全体が物に不自由をしていたころでしたが、継ぎのあたった靴下や、衣類は当たり前で、物がないからといって、それを不満に思ったり口に出したりすることは、恥ずかしいことだと感じていました。

両親は、米一粒にこめられた人の努力や、食べられることの有難さについて、よく話をしてくれました。
両親の話で強い印象を受けたのは、戦争の話でした。
父は軍隊の生活や機銃掃射の恐ろしさについて話してくれ、母は、家から百メートルとは離れていない所に落ちた二百五十キロ爆弾の爆風の被害や、夕暮、川崎方面の町の焼けるのを背景に国道を馬だけが駆けて行くもの悲しげな光景、そして疎開生活のことなどを語ってくれました。

私は当時遊び回っていた街の中に、母の話に出てくる爆弾の落ちた穴や、焼けてさびた鉄骨だけになった建物とか防空壕の跡など、戦争の傷跡がまだあちこちに残っているのを見ていたので、両親の話を、幼いながらも現実感をもって聞くことができたのです。
医院経営は、家内工業という感じで、私を含めた兄弟姉妹たちは、月末月始めになると誰いうともなく、保険請求の書類に必要な何種類かのゴム印押しを手伝っていました。

父がコヨリを捻って厚紙を付けて、それで書類を綴じ終わると、なにかの役に立ったという気持ちがして嬉しかったものです。
月が美しいといっては、皆が呼び寄せ合って眺めるといった家庭の雰囲気でした。
父は普段家で働き詰めでしたので、いっしょに外出できる機会があると、とても嬉しかったのを思い出します。

父は三つ揃いを着て、フェルトの中折れ帽子を被り、私の手を引いて歩いてくれます。
道で町内の人たちと会うと、互いに立ち止まって、二言三言医師と患者さんという感じでの挨拶を交わします。
そのとき父は、ちょっと帽子を取って会釈をしました。
父には、小学校入学前のころ、二度ほど殴られたり柱に縛りつけられたりして叱られたことがありました。

いまはもう忘れてしまいましたが、私はかなり腕白だったので、理由があってのことだったのでしょう。
近くにある神社には紙芝居屋が来ていました。
紙芝居屋は町に来ると、子供たちを集めるために、大太鼓を打ちながら町内を回ります。

紙芝居は見にいったものの、当時の私には太鼓について回ったり、そこで何かを買うことができない気持ちのうえの抑制がありました。
ところがある日、急に紙芝居屋について回りたくなり、水飴か何かを買って食べながら紙芝居を観たいという思いがつのりました。
当時は、必要なときに頼んで小遣いを貰っていたのですが、私はその理由をいうことができなかったのでしょう。

結局、調剤室の釣り銭入れからお金を盗んで、その欲求を満足させたのです。
羽を伸ばした気分と同時に、後ろめたさも感じていました。
そんな私を見た町内の誰かが告げ口したらしく、叔母に連れ戻され、父親の前に座らされました。

私はそのとき、絶対に父から殴られ、叱られると思っていましたが、保険請求の書類を書いていた父は、予想に反して、私を叱ることもせず、私の方を見てもくれず、無視したのでした。
このときほど、父親の存在を意識したことはありませんでした。
盗みは絶対に許されない、恥ずかしいことだとはっきり認識したのです。

カナリヤの死

父とは、親子としての繋がりを強く印象づけられた、忘れられないエピソードがあります。
私は小学校二年生になるとき、学区外へ転校したので、以来バス通学をしていました。
小学校四年生のとき、帰宅中のバスの中でのことでした。

家から二、三キロメートル離れた、当時の品鶴線のガードをくぐってすぐのあたりをバスが走っていたとき、私は突然、心に衝撃を感じたのです。
それは思わず腰を浮かせてしまったほどのもので、言葉をなさない言葉のようなひらめきで、「父、カナリヤ、殺してしまった」ということが、ほとんど一瞬にして私の心に衝撃の形であらわれたのです。

家に着いてみると、衝撃を受けたときに心に浮かんだ内容のとおりのことが、父の身に生じていたことがわかりました。
父は、傍目にもそれとわかるほどガッカリしていました。
家に迷いこんだカナリヤの世話を父が毎日していたのですが、巣箱を掃除し終えて、引き出し式の巣箱の底を入れるとき、誤ってカナリヤを圧死させてしまったのでした。

その出来事が起きたのは、私がバスの中で衝撃を感じたときと一致していたようでした。
これは、いま考えても不思議な体験ですが、私は親と子の繋がりをそれ以後強く意識するようになったのです。
母は、私が小さいころはいつも、髪の毛をひっつめにして同じような和服に白い割烹着を着て、忙しく働いていました。

気を張って生きる母の姿を見ていると、私も泣き言をいったり、いい訳をしたりすることを恥じる気持ちを自然ともつようになりました。
母については、優しく暖かい思い出があるばかりです。両親は、人の恩を受け苦学したこともあって、子供たちが自立できて、人の迷惑にならず、世の中の役に立てるようにと、教育にも心をつかっていました。

開業医とはいえ、六人の子供を大学まで出したこともあって暮らしは決して楽ではなく、私たち兄弟もそのことは小さいころからなんとなくわかっていて、無駄遣いはしないようにし、両親への感謝の気持ちを抱いて育ちました。
私は小学校を転校しても、教師や友人に恵まれ、屈託なく成長することができました。

転校時の担任の先生は、昼食のとき、食事もそこそこに、黒板に本の挿絵を描きうつしながら「ドリトル先生」の話を読みきかせてくださいました。
それがとても楽しく、以来読書の習慣がつきました。
三年生のころには、小遣いを貰うとすぐ本屋に行き、許すかぎりの本を買って、一日中飽きもせず読んでいました。

読んでいた本の種類は、童話にかぎらず、当時あった講談社の少年少女向けシリーズを中心に、家にあった本まで片っ端から、という感じでした。
たいていの本を何度も繰り返し読みました。
吉川英治の『神州天馬侠』に出てくるが"六部"の恰好を、敷布をひっぱり出して真似していたのもこのころのことでした。

とくに「史記」「三国志」「水瀞伝」「義経記」「太平記」は好きでした。
時に、少年向きでない難しそうな本も素早く読んでしまうので、心配になったのでしょうか、私が「平家物語」を読みおえたとき、「郁夫君、内容はわかっているのかね」と父から尋ねられたことがありました。

私の答えに納得したのか、父はそれ以降なにもいわなくなりました。
小学四年生のころから、確か和歌森太郎編纂の写真入りの「日本の歴史」十何冊かのシリーズをコツコツと買いそろえて、これも暗記してしまうくらいよく読みました。
,「世界の神話」や「昔話」、「民話」や「王家の谷」などのエジプト遺跡調査の本も読んだりして、以来いまにいたるまで、民俗学や歴史や考古学に関する情報には興味をもち続けることになりました。

五、六年生の担任の先生は厳しい方でしたが、その後も受験には直接関係のない詩や俳句や和歌を、「万葉集」にまつわるご自分の想い出も交えて紹介してくださったりしました。
授業も楽しく、しかも生徒自身で進歩がわかるような工夫が凝らされており、その情熱に感応してクラスも充実した雰囲気でした。
「卒る子に祝いの言葉 木の芽風」、これが卒業のとき先生からいただいた句でした。

 

 

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