最後の家族
 
  家族について書かれた残酷で幸福な最後の物語。この小説は、救う・救われるという人間関係を疑うところから出発している。誰かを救うことで自分も救われる、というような常識がこの社会に蔓延しているが、その弊害は大きい。そういった者え方は自立を阻害する場合がある。 村上龍  
著者
村上龍
出版社
幻冬舎
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2001/10/10
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ISBN4−344−00121−4

序章 直径10センチの希望

内山秀樹は、自室の窓を被う黒い紙に直径十センチほどの丸い穴を開けた。
コンパスを使って円を描き、カッターナイフでえぐり取った。
その穴は、ちょうどカメラの望遠レンズの大きさだったが、昔買ったカメラを手にする気になったわけではなかった。

引きこもりを始めてから一年半が経とうとしている。
外出するのが苦痛になって、窓に黒いケント紙を貼った。
雨戸がないので力ーテンだけでは外光が洩れる。

光が部屋の中に差し込むのが我慢ならなかった。
黒のケント紙が少しずつ湿気で剥がれてくると、上から補修した。
今では、黒い紙は何重にも自分と外を遮断している。

外の音も聞きたくなかった。
特に下の道を通る入の話し声や、挨拶を聞くのもいやだった。
外側に大勢の人間たちがいて、会話や仕事や恋愛をしている。

窓に黒いケント紙を貼っても、そういう現実を完全に遮断できるわけではない。
そんをことはよくわかっていた。
だが自分以外の人々は、逃げずに現実を生きていて、いろいろな場所へ出かけ、さまざまな他人と出会いながら人生を楽しんでいるのだ。

そういったごく当たり前の生活を送る人間たちの声を聞きたくなかった。
インターネットの引きこもりのサイトの掲示板では、五年とか十年とか、秀樹よりもはるかに長い期間引きこもりを続ける人の書き込みを見ることができる。
みんな他人を恐がっている。

自分二人ではないと思って秀樹は少し安心できる。
秀樹と同じように窓外の他人の話し声を聞いたり、姿を見るのがいやだという人も多かった。
ただ彼らの書き込みを見て不安になるのは、他の人間の匂いのようなものを避け続けると、生の人間をたとえば映画とか写真とかで見るのも恐くなってくるらしい。

ある人は、映画とかテレビではアニメしか見ることができないし、雑誌でも漫画しか読めなくなったと書いていた。
生の人間が写っているぺ一ジはあらかじめ親に切り取って捨ててもらうらしい。
まだ引きこもって二年半だ、と秀樹は自分に言い聞かせ、安心しようとする。

まだ二十一歳だし、インターネットの引きこもりのぺ一ジに登場する三十歳とか四十歳の引きこもりに対しては、優越感のようなものを感じることがある。
でもおそらくあっという間なのだろうと思って恐くなる。

引きこもって半年くらいは、親と口論したり、アルバイト情報のサイトにアクセ スしたり、古い知り合いにメールを出したりして、それなりに時間が過ぎていくのを感じることができた。安定剤を飲み始めたころから、からだがだるくなり、頭がぼーっとして、時間の経過が不確かになってきた。薬のせいなのか、昼夜逆転の生活のためか、からだの反応が鈍くなって、その後の一年は、夢の中にいるような感じのままあっという間に過ぎてしまった。

夕方に目を覚ますと、秀樹はまずパソコンを立ち上げて、ネットにつなぎ、メールをチェツクする。届いているのはいくつかのメールマガジンだけだ。誰からもメールなんか来るわけがない。母親経由で、精神科医に言われた。何でもいいから自分で小さな目標を作って、それを達成したら自分をほめるようにしなさい。
二日に一度コンビニに牛乳を買いに行く。

メール友だちを作る。
朝の七時やハ時ではなく、せめて深夜の三時までには寝るようにする。
暗くなってから家のまわりを散歩してみる。
家族に優しい言葉をかけてみる。

いろいろ目標を立ててみたが、何一つ実行できていない。
焦りはひどくなるばかりだ。
このまま死んでいくんだな、と一人で眩いたりするようになった。

あきらめてはいけない。
そういう風にネットの掲示板などにはよく書いてある。
また、焦らずにしばらく休んでもいいんだよ、という風にも書いてある。
休むのはいいが、あきらめてはいけない。

そういうことだ。
簡単ではない。
休むこととあきらめることの区別が秀樹にはわからない。
あきらめるな、というのと、休んでいてもいいんだよ、というのをどう関係づければいいのかわからなかった。

そんなことはもうどうでもいいから楽になりたいと思うと、からだと脳が溶けていくような、気味の悪い、それでいて気持ちがいい、変な気分になった。
このままでは神経がおかしくなってしまうと思ったときに、秀樹は、黒いケント紙に十センチの穴を開けることを決めた。
他にやることが見つからなかった。

二時間かけて、カッターナイフで穴を開けた。十センチの穴から、カーテンを通して、日差しが部屋に入ってきた。
しかし秀樹にはすぐにその穴から外を覗く勇気がなかった。

 

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