太陽待ち
 
  撃たれた兄、その兄の、眠ることの中少女を幻視する老監督、謎の言葉ルーズマイメモリー・・・・時空を越え、圧倒的なグルーブ感をもって展開する、新しい文学の冒険。愛の宇宙を翔けるイマジネーション、めくるめく物語世界 あの日の太陽に出会えばきっと繋がる・・・・もう一つの世界の扉を開く愛と再生の物語  
著者
辻仁成
出版社
文藝春秋
定価
本体価格 1810円+税
第一刷発行
2001/10/15
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ISBN4−16−320410−5

ルーズマイメモリー

「まだかな」と僕が言うと、智子は空を見上げたが、その顔は浮かない表情をしていた。
「うん、どうかな。出そうだけれど、それがその太陽かどうかはわからない」地平線が微かに動いたような気がしたが、すぐに気のせいだとわかった。

延々と続く叢の上を南風が駆け抜けていっただけ。持っていた刷毛をペンキ缶の中に戻してから、しょぼしょぼとする両眼を手の甲で擦った。
空に青い部分が占める割合が増えてきている。

風の流れを感じようと意識を澄ませてみた。
頬を伝う新鮮な勢いの中に、ひんやりとした涼を覚える。

「出たからといって、それが同じ太陽かどうかはわからないわ」
「このままその太陽がやってこなかったら」丸山智子が僕の言葉に眉を餐め、やめて、とため息まじりに眩いた。

「考えたくもない」僕は笑ったが、彼女は笑いそうになった口許を慌てて喋んでしまった。
雲の隙間から、ついに太陽が顔を出そうとしているのに、誰も焦る様子がなかった。

みんなとろんとした目のまま、どこを見るというわけでもなくまどろんでいる。
「汚しはとっくに終わってるのに、ね」智子が目の前に広がる整壕や戦車の残骸へいったん視線を落としてから告げる。

「でもまだ納得はしてない」
「いつ納得するの?」

「ぎりぎりまでしない」
そう言うと、智子は微笑んで、そんな人たちばっかり、と眩いた。

ここでは時間がすっかり止まってしまっている。
車座になって座っている男たちも、戦場の景色も、そして果てのない地平線も、すべて年代物の油彩画の中に描かれた世界のようである。

「二郎は誰が」
智子が不意に話題を変える。
僕を見ないで、遥か彼方へ気持ちを飛ばすように目を細めて。

「ときどき母さんが」そう、と智子は言った。
風が再び叢の上を地平線へと駆け抜けた次の瞬間、光の面が広範囲にわたって草原の上に出現した。
大地いっぱいに敷きつめられたドミノが一斉に倒れていくように、叢の葉先が光を反射し、それが次々地平線を目掛け倒れては、さわさわと音をたて移動した。

僕がここ数日作業してきた壊れた戦車やトラックの残骸の上にも、太陽の光が満遍なく降り注ぎはじめた。
「来た」
世界が繋がるかどうか、を待っていた僕たちは同時に空を見上げた。

目の中心に心地よい痛みが走り、そのせいでか軽い目眩を覚えた。
でもまだ半信半疑である。

*

僕には五歳年上の昏睡状態の兄がいる。
彼は今年のはじめ、東新宿の公園で銃弾に倒れてからずっと意識が戻らない。

もうすぐ世界は新しい世紀へと突入してしまうというのに、兄はそのことさえも知る由はない。
二郎は生命維持装置と繋がったままベッドの上に横たわり、なんとか生きつづけている。

悪事、あるいは女性の口説き方、賭け事のこつ、世渡りのテクニック、何でも兄から教わった。
高校を追い出された兄は、いつまでも正業につかず、父不在の我が家にあってその存在は導火線のようであった。

切れやすい電球、と仲間たちに呼ばれていた二郎。
中学の頃から次第に悪党ぶりを増していき、高校生になるとやくざとも付き合いを深め、幾度もの補導の挙げ句、教護院や少年院通いを繰り返し、新宿の吹き溜まりに集まる不良たちのリーダーのような存在になった。

いったん切れると見境がなくなって、相手がやくざであっても殴りかかっていく、危ない度胸の持ち主でもあった。
「四郎、今度な、でっけえ仕事を引きうけることになったんだ」
兄は昏睡状態に陥る前に、そんなことを僕に漏らしたことがあった。

 

 

 

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