パレード
著者
吉田修一
出版社
幻冬舎
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2002/2/10
ISBN4−344−00155−9
素顔のままでは生きにくい。現実は」厳しい!2LDK共同生活の胸の内─!

5人の若者の奇妙な2LDK共同生活を描いた青春小説。いつの時代も現実は厳しい。でもふさわしい自分を演じればそこは、誰もが入れる天国になる。杉本良介21歳、H大学経済学部3年。大垣内琴美23歳、無職。小窪サトル18歳、「夜のお仕事」に勤務。相馬未来24歳、イラストレーター兼雑貨屋店長。伊原直輝28歳、インディペンデントの映画配給会社勤務。5人の生活がオムニバスで綴られる。


杉本良介(21歳)H大学経済学部3年

1・1

つくづく不思議な光景だと思う。
ここ四階のベランダからは、眼下に旧甲州街道を見下ろせるのだが、一日に何千台という車が通っているにもかかわらず、一台として事故を起こす車がない。
ちょうどベランダの真下に横断歩道があり、信号が赤になれば、走ってきた車は停止線できちんと停まる。
その後ろから走ってきた車も、前の車との距離を計り、ぶつからない程度の位置で、そのまた後ろからきたのも、同じような間隔を空けて停車する。
そして信号が青になれば、先頭の車がゆっくりと走り出し、二台目、三台目が安全な間隔を取りつつ、引っ張ら
れるようにあとに続く。
もちろんこのぼくだって、運転する時、前に車が停まっていればブレーキを踏むし、いくら信号が青になったからって、前の車が走り出す前にアクセルを踏むことはない。
当たり前だと言ってしまえばそれまでだし、そうそう事故など起こるわけもないのだが、こうやって真上から通りを眺めていると、やはりその当たり前な車の動きが、つくづく不思議に思えて仕方がない。
晴れた日曜の午後、なぜぼくがこうやってベランダから眼下の通りを眺めているかというと、理由は一つ、退屈だからだ。
こう退屈だと、なんというか、時間というものが、実は直線ではなく、その両端が結ばれた輪っかのようなものに思えてきて、さっき過ごしたはずの時間を、もう一度、過ごし直しているような感覚になる。
真実味がないというのは、もしかするとこんな状態のことを言うのかもしれない。
たとえば今、このベランダから飛び降りたとする。
もちろんここは四階だから、運がよくても骨折だろうし、運が悪ければ即死する。
ただ、輪っかのような時間の中にいる場合、一度目は即死だったとしても、二度目がある。
一度目の即死を踏まえて、今度は軽い捻挫で済むくらいの飛び降り方を試してみられる。
三度目にはもう、飛び降りることに飽きてしまい、柵を跨ぐことすら面倒になる。
飛び降りなければ、なんの変化も起こらない。起こらなければ、元の退屈な時間が待っている。
この晴れた日曜日に、何もやりたいことがないわけではない。
かといって、何がやりたいんだ?と訊かれるとやはり困るが、たとえばこれまでに一度も行ったことのない場所で、これまでに一度も会ったことのない人と、恥ずかしいくらい正直な言葉で、語り合ったりしてみた
い。
別に可愛い女の子限定でなくてもいい。
たとえばそう、夏目漱石の「こころ」に出てくる先生とKみたいに、人生について、愛することについて、一緒に悩んだりしてみたい。
ただ、自殺されたら厄介なので、相手は少し能天気な方がいい。
なめくじのように貼りついていたベランダの柵を離れて部屋へ戻ったぼくは、敷きっぱなしの布団を踏みつけ、そのままリビングヘ出た。
リビングには「ナースのお仕事」の再放送を熱心に見ている琴ちゃんの背中があった。
相変わらずパジャマ兼用のスウェット姿で枝毛を切っている。
ぼくが部屋から出てきたのを背中で感じたのか、「学校が休みだと、大学生はやることないわねえ」と馬鹿にしたように笑うので、思わず横にあった姿見を、琴ちゃんの前に立ててやろうかと思った。
鏡に映る自分の姿を見て、脂汗でもかけばいい。
「これからコンビニ行くけど、なんか買ってくるもんある?」
財布の中身を確かめながらぼくがそう尋ねると、枝毛を採んだまま振り返った琴ちゃんが、
「コンビニ?何しに?」と訊く。
「何しにって……立ち読みに」とぼくは答えた。
『暇人ねえ』とかなんとか言って、笑ってくれるかと思ったが、琴ちゃんは、「立ち読みかあ、私も行こうかなあ……」と咳いた。
「いいよ、来なくて」
「なんで?」
「だって、琴ちゃんが来ると、読みたい雑誌、手に取りづらくなるだろ」
(本文P.7〜9から引用)

 

 

 

 

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