■要旨
「恋はするものじゃなく、おちるものだ」。ふたりの少年と年上の恋人―恋の極みを描く待望の長篇恋愛小説。
1
世の中でいちばんかなしい景色は雨に濡れた東京タワーだ。
トランクスに白いシャツを着ただけの恰好で、インスタントコーヒーをのみながら、小島透は考える。
どうしてだろう。
東京タワーが濡れているのをみるのはかなしい。
胸をおさえつけられる気がする。
子供のころからずっとだ。
芝の高台にあるこのマンションに、透は赤ん坊のころから住んでいる。
「そりゃ金銭的には楽だろうけどさ、母親と一緒なんてうざったくねえ?」
つい最近、耕二にそんなことを言われた。
「もっともお前んとこはな、普通の母親と違うからな、いいかもしんないけど」
耕二とは高校が一緒だった。
都内でも指折りの進学校で、二人とも比較的成績がよかったが、共通点はそれだけだった。
午後四時。
もうすぐ詩史さんから電話がくる。
透は考える。
いつからだろう。
いつから自分はあのひとの電話を、こんなふうに待つようになったのだろう。
透が携帯電話を持ちたいと言ったとき、詩史は鼻にしわをよせた。
「よしなさいよ。なんとなく軽薄だわ」
そんなことを言った。
自分は持っているくせに。
詩史の携帯電話には、絹糸を編んだストラップがついている。
夜空みたいにつめたいブルーのストラップ。
「自分でつくったの?」
いつだったか透が訊くと、詩史は、まさか、とこたえ、店の女の子がつくったのだと言った。
店。
代官山にあるそれは、変な店で、家具も服も食器も置いてある。
セレクトショップというのだそうだ。
いちぱん最近いったとき、犬の首輪とエサ入れまで置いてあったのにはおどろいた。
しかも随分と高価なのだ。
詩史の店にあるものはみんなそうだ。
透は思う。
詩史さんは何でも持っている。
お金、自分の店、そして夫。
四時十五分。電話はまだ鳴らない。
透は、ぬるくなったコーヒーを不承不承啜る。
インスタントコーヒーが透は好きだ。
ドリップしたものよりも性に合うと思う。
うすっぺらい香りがいいのだ。
いれるのが簡単だし。
簡単というのは大切なことだ。
一九八○年三月に、透は生まれた。
父と母は、透が小学校に入学した年に離婚した。
以来、透は母親と住んでいる。
詩史と知りあったのも、母親を介してだった。
「お友達なの」
母親は詩史を、そう言って透に紹介した。二年前、透が十七歳のときだ。
すんなりした手足と豊かな黒髪。
白いブラウスに濃紺のスカートをはいていた。
「こんにちは」
目と口の大きな、エキゾティックな顔立ちのひとだと思った。
「陽子さんに、こんな大きな息子さんがいるなんて知らなかったわ」
詩史は透をまじまじとみつめ、
「音楽的な顔をした息子さんね」
と、言った。それがどういう意味なのか、透には理解できなかったがことさら尋ねはしなかった。
「高校生?」
はい、とこたえた自分の声が、なんとなく不機嫌に響いたことを憶えている。
二年目の大学生活は退屈そのもので、ここのところ透はあまり授業にもでていない。
出欠を厳しくチェックする教師に限って講義がつまらないのは不便なことだ。
透はハイポジをステレオにのせ、甘く、湿度もあるのに軽く快いヴォーカルに、耳を傾ける。
ガラス窓の外、雨に濡れた住宅地と東京タワーを眺めながら。
大学の女の子たちというのはどうしてああ愚鈍なんだろう。
網戸にしている窓ごしに、樋からぼたばた流れ落ちる雨の音をききながら、耕二は暗濃とした気持ちで考える。
本文P.3〜5から引用
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