東京タワー
著者
江國香織
出版社
マガジンハウス
定価
本体価格 1400円+税
第一刷発行
2001/12/07
ISBN4−8387−1317−7
「恋はするものじゃなく、おちるものだ」。

●『鳩よ!』好評連載が本になった。全450枚。
小島透は東京タワーの見えるマンションに母と二人で住んでいる。
20歳の大学生だ。17歳の時に知り合った詩史さん(夫と仕事を持つ年上の女性)を想いつづけている。
頭の良さというのは行動能力だ、と信じる親友の耕二は忙しい。恋人の由利ちゃん
と年上の人妻・喜美子、高校時代のクラスメート吉田、それにアルバイト――。
対照的なふたりの大学生を主人公に、愛とセックス、青春の輝きと暗闇を描く江國
香織の新境地。著者初の男性主人公の試み。

●作中の印象的なシーンを紹介
・ 透
世の中でいちばん悲しい景色は雨に濡れた東京タワーだ。
午後4時。もうすぐ詩史さんから電話がくる。透は考える。いつからだろう。いつから自分はあのひとの電話を、こんなふうに待つようになったのだろう。
透は、どこにも属していない自分をはじめて発見したし、その本来の自分ともいうべき自分でいることが気に入っていた。自然で自由で幸福だった。そして、自分は詩史さんによって存在させられている。
待つというのは、不思議なことだ。……待つのは苦しいが、待っていない時間よりずっと幸福だ。詩史につながった時間。ここに詩史はいないのに、自分は詩史に包まれていると感じる。支配されている、と言うべきかもしれない。
・ 耕二
頭のよさというのはつまり、行動能力だ。耕二はそう思っている。能力さえあれば人間は自由なのだ。いまの自分には喜美子がいる。喜美子との関係がいつまで続くかはわからないけれど、喜美子はあのときの厚子よりも七つ若く、ずっと奔放だ。
それに第一子供がいない。いまのところ、不都合は何もないのだ。
夏がおわるまでに、喜美子と別れなければならない。それが、耕二が数日でだした結論だった。これ以上喜美子が冷静さを欠いてしまう前に、あるいは、これ以上自分が翻弄される前に。うしなえない、と、耕二は思う。自分は喜美子をうしなえない。たとえいつかは別な女と結婚しても、喜美子との肉体関係はうしなえない、と。

マガジンハウスホームページから引用

 

■要旨
「恋はするものじゃなく、おちるものだ」。ふたりの少年と年上の恋人―恋の極みを描く待望の長篇恋愛小説。


1

世の中でいちばんかなしい景色は雨に濡れた東京タワーだ。
トランクスに白いシャツを着ただけの恰好で、インスタントコーヒーをのみながら、小島透は考える。
どうしてだろう。
東京タワーが濡れているのをみるのはかなしい。
胸をおさえつけられる気がする。
子供のころからずっとだ。
芝の高台にあるこのマンションに、透は赤ん坊のころから住んでいる。
「そりゃ金銭的には楽だろうけどさ、母親と一緒なんてうざったくねえ?」
つい最近、耕二にそんなことを言われた。
「もっともお前んとこはな、普通の母親と違うからな、いいかもしんないけど」
耕二とは高校が一緒だった。
都内でも指折りの進学校で、二人とも比較的成績がよかったが、共通点はそれだけだった。
午後四時。
もうすぐ詩史さんから電話がくる。
透は考える。
いつからだろう。
いつから自分はあのひとの電話を、こんなふうに待つようになったのだろう。

透が携帯電話を持ちたいと言ったとき、詩史は鼻にしわをよせた。
「よしなさいよ。なんとなく軽薄だわ」
そんなことを言った。
自分は持っているくせに。
詩史の携帯電話には、絹糸を編んだストラップがついている。
夜空みたいにつめたいブルーのストラップ。
「自分でつくったの?」
いつだったか透が訊くと、詩史は、まさか、とこたえ、店の女の子がつくったのだと言った。
店。
代官山にあるそれは、変な店で、家具も服も食器も置いてある。
セレクトショップというのだそうだ。
いちぱん最近いったとき、犬の首輪とエサ入れまで置いてあったのにはおどろいた。
しかも随分と高価なのだ。
詩史の店にあるものはみんなそうだ。
透は思う。
詩史さんは何でも持っている。
お金、自分の店、そして夫。
四時十五分。電話はまだ鳴らない。
透は、ぬるくなったコーヒーを不承不承啜る。
インスタントコーヒーが透は好きだ。
ドリップしたものよりも性に合うと思う。
うすっぺらい香りがいいのだ。
いれるのが簡単だし。
簡単というのは大切なことだ。
一九八○年三月に、透は生まれた。
父と母は、透が小学校に入学した年に離婚した。
以来、透は母親と住んでいる。
詩史と知りあったのも、母親を介してだった。
「お友達なの」
母親は詩史を、そう言って透に紹介した。二年前、透が十七歳のときだ。
すんなりした手足と豊かな黒髪。
白いブラウスに濃紺のスカートをはいていた。
「こんにちは」
目と口の大きな、エキゾティックな顔立ちのひとだと思った。
「陽子さんに、こんな大きな息子さんがいるなんて知らなかったわ」
詩史は透をまじまじとみつめ、
「音楽的な顔をした息子さんね」
と、言った。それがどういう意味なのか、透には理解できなかったがことさら尋ねはしなかった。
「高校生?」
はい、とこたえた自分の声が、なんとなく不機嫌に響いたことを憶えている。
二年目の大学生活は退屈そのもので、ここのところ透はあまり授業にもでていない。
出欠を厳しくチェックする教師に限って講義がつまらないのは不便なことだ。
透はハイポジをステレオにのせ、甘く、湿度もあるのに軽く快いヴォーカルに、耳を傾ける。
ガラス窓の外、雨に濡れた住宅地と東京タワーを眺めながら。
大学の女の子たちというのはどうしてああ愚鈍なんだろう。
網戸にしている窓ごしに、樋からぼたばた流れ落ちる雨の音をききながら、耕二は暗濃とした気持ちで考える。

本文P.3〜5から引用

 

 

 

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