わたし
著者
坂東眞砂子
出版社
角川書店
定価
本体価格 1400円+税
第一刷発行
2002/02/25
ISBN4−04−873353−2
わたしは人を殺してきた。祖母を、父を、母を、そしてすべての人々を。衝撃の自伝小説。

わたしは人を殺してきた。祖母を、父を、母を、そしてすべての人々を。衝撃の自伝小説。

タヒチで恋人との激しい愛憎と闘いから、真の自分を探す自伝小説。

本作品は、著者が表現者としての原点に立ち返って、自らの傷、性、修羅を見つめ直し、屍のように生きていた祖母の人生への回顧を交えながら、自分の生の意味を見いだし覚醒してゆく、傑作自伝小説。


 

これは人でなしの日記、
犯罪の記録である。
ここに出てくる登場人物はすべて虚像であり、
「わたし」のみが真実である。
人生において秩序を求めるならば、
その唯一の道は、
無秩序を認め、操ることに始まる。

わたしにとって、世界は失われている。
抽象的にいっているのではない。
わたしの手にするペン、服、櫛、靴、コーヒー、本、アイロンも、箒もバッグも、お箸も、わたしの周囲にあるものはなにもかも、そこにあって、そこにない。
家を出て、ドアに鍵をかけて、バッグにしまう。
その時、「鍵はどこにある」と聞かれたら、わたしは狼狽える。
バッグの中に入れた気もする。
家の中に置き忘れた気もする。
わたしは慌ててバッグの中をかきまわす。
見つからない。
「鍵、なくしてしまった」と、わたしは答える。
バッグの中にちゃんと鍵はあっても、わたしにとって、鍵なんか最初からないのだ。
だから、わたしには家もない。
家族もない。
友達もない。
恋人なんか、ありようもない。
最初から失われているのだから、あるはずはない。
わたし自身だって、失われている。
なんにもない中にわたしはいて、そのわたし自身も、やっぱりどこにもいない。

十七歳の時、初めて一人旅をした。
四国の田舎にある家を出て、列車に乗って、海を渡
った。
海といっても、瀬戸内海だ。
大学受験に行くために、高松から、岡山の宇野に行く
宇高連絡船に乗ったのだった。
わたしは家から出ていきたかった。
家は窮屈な牢獄のように感じられ、家族は牢獄内に
いる最も近い他人に過ぎなかった。
わたしにとって、家族はいなかった。
別に、わたしの家族が他の家族と違っていたというわけでもない。
高校教師の父親と、保母の母親という、堅実な家庭だった。
両親が喧嘩したのを見たことはない。
地元の公立大学に進んだ姉と、高校入学が決まったばかりの妹がいた。
姉は優等生で、妹は母親に反抗して、おちこぼれすれすれになったが、なんとか私立の高校に合格して、教師の娘という対面だけは保てていた。
家庭での波風といえば姉妹喧嘩が時々起こる程度で、高知の田舎のどこにでもある家庭のひとつだった。
それでもわたしに家族はなかった。
父と母と姉と妹に囲まれて、一人だった。
一人でいるのが、わたしにとっては最も自然だった。だったら、家族の中にいないほうがすっきりする。
大学入学はその最高の口実となった。
最初から、地元の大学なんか眼中になかった。
一人暮らしをするために、なにがなんでも県外の大学を選んだのだった。
宇高連絡船は、母に連れられて、姉妹と一緒に東京や大阪の親戚を訪ねていった時に乗ったことがあった。船上では、必ず売店で作っている讃岐うどんを食べた。
葱と鰹節が載っただけの簡単なものなのに、風の吹きすさぶ甲板で食べる熱々のうどんは、とてもおいしかった。
しかし、その時のわたしには、大学受験を翌日に控え、讃岐うどんを食べる気持ちの余裕もなく、第一、店で食べ物を注文する勇気もなく、甲板の手すりにもたれかかって、一時間ほどの短い船旅の終わりを待っていた。
長年、船客を乗せて、宇野と高松の間を行き来してきた船は、かなりくたびれていた。
手すりやベンチのペンキは剥げかかり、船倉の客室の座敷の力iペットは薄汚れていた。
家族連れや、仲間同志の旅客、出張らしい男たちが、船のあちこちに固まっている。
話し声や笑い声が聞こえているにもかかわらず、連絡船の中はどこか寂れた空気が漂っている。
わたしは船の上に投げだされた貨物のひとつみたいだった。
瀬戸内海はつまらない海だった。
わたしにとって、海は太平洋だ。弧を描いて広がる海だ。荒い波が打ち寄せ、海岸に立つと、腹の底がぞくぞくしてくる。
しかし、瀬戸内海ときたら、波はほとんどなく、やけにおとなしい。
こを向いても、島影や陸の形が浮かんでいる。
瀬戸内海は小さくて、いつでも目的地が見えている。太平洋を前にした時のような揺すぶられるものはなく、こんな水溜まりを海と呼ぶことに、忌々しさを覚えるほどだった。
瀬戸内海は、わたしの考える人生だった。波風のない、目的の見えている人生。両親が、わたしに望む入生。わたしはそんな人生に足を踏みこむことが厭で、県外の大学を受験するのだ。
しかし、その第一歩は、やはりこの瀬戸内海を渡ることだった。
「お嬢ちゃん、どこに行くんや」
まだ肌寒い、早春の潮風を浴びていたわたしに、一人の男が話しかけてきた。
貧相な、三十代半ばの男だ。
角刈りの頭に土色の頬。薄い唇の大きな口は、地面の亀裂のように下顎を割っている。
男は、草色のジャンパーと灰色のナイロンのズボンを身につけていた。

 

本文P3〜5から引用

 

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