ある愛の詩
著者

山下久美子

出版社
幻冬舎
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2002/06/15
ISBN4-344-00200-8
この世界で、どれだけの人生が行き来し、そこに恋が生まれ、死んでいくのだろう。・・・

布袋寅泰との出会いと別れ、そして天使が舞い降りるかのように恵まれた二人の愛娘と、再認識させられた、生命の強さと切実さ。シンガーとして、母として、一人の女として、そっと過去を紐解きながら、波打つ想いをありのままに綴った、山下久美子初めての手記。

 

あかねとひかるに捧ぐ

この扉を開けたら、もう二度と戻れない。
いまならまだ、引き返すこともできる。
いまなら……。

一九九七年、四月。
私は単身、ロンドンヘ旅立とうとしていた。
春とはいえ肌寒い朝だった。
空は曇っていて、時折、薄い陽射しが庭の月桂樹の葉を照らした。
玄関には、夫と、愛犬のジュリアが見送りに出ていた。
このとき私と夫がかわした会話は実に短いものだったように記憶している。
「じゃ、行ってきます」
「気をつけて」
そのときの彼はまだ、私の心の中でいったい何が起こり、大きく波打っているのかについて、まったく気づいていないようだった。
外階段を下りて振り向くと、ジュリアの寂しげな顔が飛び込んできて、一瞬胸を突かれた。
生後ニカ月ほどで家に来てから、九年間を一緒に過ごしてきた「彼女」は、すでに私の大切な親友だったのだ。
このときになって、ふいに子どものように泣き出したい気持ちに私はかられた。
うねるように不安が押し寄せ、心細さに体が震えた。
それは思いもよらぬ感情だった。
いまならまだ、引き返すこともできる……。
急激に人気が引いて、誰もいなくなった砂浜に、ひとりとり残されたような気分を、きつく振り切るようにして、私は待っていたタクシーに勢いよく滑り込むと、「成田空港へ」と、ドライバーに告げた。
(本文P.4,3より引用)

 
 

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