火星に憧れる高校生だったぼくは、現在は新聞社の科学部担当記者。過激派のミサイル爆発事件の取材で同期の女性記者を手伝ううち、高校時代の天文部ロケット班の仲間の影に気づく。非合法ロケットの打ち上げと事件は関係があるのか。ライトミステリーの筋立てで宇宙に憑かれた大人の夢と冒険を描いた青春小説。第15回サントリーミステリー大賞優秀作品賞受賞のデビュー作。
砂嵐はやんだ。 小さな丸窓から見える赤い大地の表面には、ねじくれた山脈や巨大な渓谷、大河の河口のような地形がみてとれる。 つい二時間前まで、惑星全体がのっぺりとした赤錆色の薄膜に包まれていたのが嘘のようだ。 目的地である高緯度地方の渓谷も肉眼で確認することができた。 極冠に近いせいか、うっすらと白いものが渓谷を覆っている。 お世辞にも広いとはいえないコックピットで彼らは体を寄せあって最終的な判断を待っていた。目的地の渓谷に先だって着陸している無人支援船からのデータと上空からの観測をコンピュータが解析し、安全の確認ができれば、あとは着陸のシークエンスを開始するだけだ。 コンピュータのモニタに緑のサインがともった。 コマンダー席の男が回線を開くスイッチを入れ、多少芝居がかった声で、ヘッドセットのマイクに話しかけた。 「ミッション・コントロール、こちらカセイ・べータ号、ただ今より、大気圏に突入する。すべて順調。いよいよ、人類にとって新たな一歩を踏み出す時が来た」 そして、マイクを手で包み込み、小さな声で付け加える。 「このメッセージがあっちに届く二〇分後には、どのみち全部すんでしまっているがな......」 地球では何十億という人々が、遠い火星の衛星軌道から届くメッセージを待っている。アポロの月着陸から半世紀以上をへて、ようやく人類が別の惑星へ到達する瞬間を固唾を呑んで見守っているのだ。 コマンダー席の男がコンピュータに着陸シークエンスの指令を出すと、着陸船のまわりに配置された大気捕捉用のエアロ・シェルが向きをかえる。 かすかな振動がコックピットにまで伝わってきて、やがてそれが凛とした冬の夜に遠巻きに聞く潮騒のような音にかわっていった。 「静かだな」と誰かが言った。 コンピュータは自動的に着陸船を制御する。 コックピットではモニタを凝視するのみだ。 緊迫でもなければ、緊張でもない。ただ時が満ちていくのを誰もが息をひそめて待ち続ける。 エアロ・シェルにぶつかる大気の音が次第に大きくなってきた。 ゴーッという通奏低音。 着陸船は順調に速度を落としつつある。 その時、スピーカーからふいに耳に馴染んだ曲が流れはじめた。 「こんなクソみたいなディスク、どいつが持ってきてたんだ」パイロット席の男が笑いながら言った。 コックピットのなかの空気がふっと変わる。 「ミッション・コントロールの連中のしわざだ。着陸モードに入った時に自動的に流れるように、昨日のうちにデータが送られてきていた。気を利かせているつもりだろ」 「なんでもいいが、この曲はないだろ。ガキの頃を思い出しちまう」 小さな空間を満たす曲の名前は、「フライ・ミー・トゥー・マーズ」(わたしを火星に連れてって)。極東の小さな島国のミュージシャンが作詞・作曲したミドルテンポのポップロックを、英語に吹きかえたものが二〇世紀末に大ヒットした。 誰かが曲の歌詞を口ずさみ始めると、他の連中も唱和する。 船内をとりまく通奏低音に歌声がしみこんでいく。 「とうとうここまで来たか……」間奏のリフを聞きながら言った。 「長かったな」 「でも、あっという間でもあった」
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