2009年・ヒートアイランド化した東京。神楽坂にはアザーンが流れ、西荻窪ではガイコクジン排斥の嵐が吹き荒れていた。これは真実か夢か。熱帯都市・東京をサバイブする若者を活写する長編。
まばたき一回のあいだに父親は視界から消えていた。 クルーザーの後部席にいた六歳の息子は手品でも見るように海に奪われた父親を捜したが、ステアリングホイールを握る背中は二度と現われなかった。 船体はいっきに翻弄されて旋回をはじめる。 しかもはげ烈しい上下動をともなった。 ふたたび真横からの烈風もきた。 少年はハンドレールに必死になってしがみつきながら、コクピット内の備晶が大小を問わずに海に投げだされる一瞬、一瞬の連鎖を呆然とながめた。 そんなふうに自分の父親が狂濤にさらわれて、鳳に頬をはられるようにして右舷側の海面に飛ばされたことを説かれずとも理解した。雨滴が少年のむきだしの額と耳柔をたたき、潮が眼をあらう。 荒れる洋上には色彩が存在せず、むろん父親の姿も見いだされない。 みたびクルーザーは上下に揺さぶられた。 それから、およそ七メートルの濤の高みでブルッと舞った。 クルーザーの巨体がほんとうに舞ったのだ。 六歳の少年は、船が裏返しになっちゃう、と想像して即座に戦傑する。 そうして想像力が駆動した瞬間に、生存の本能が行動を起こしている。 常軌を逸した烈風と怒濤にからだを飛ばされないように注意して、全身の神経を一億本の針のように尖らせて、少年は後部席からコクピットに入る。 一歩一歩前進することもままならない暴力そのものの状況下で、左右の指の一本一本で数センチずつ這うようにして、やがて父親のミニチュアの亡霊となって前方の操縦席についた。 ステアリングホイールをつかんで、それからは見よう見まねだった。 操船の経験など当然ない。 父親はあらゆるアウトドアでの生き残りの技術を息子に仕込んでいたが、船舶の運転は危険というか時期尚早とみなしていた。 重すぎるステアリングホイールに、しかし幼い腕は耐えた。 かろうじて操舵されながらクルーザーは大時化を割いて疾走する。 ギアは父親が消える前と同様にハイにセットされたままだった。 こんどは向かい風がコクピットの少年を襲った。 限界を超えた重圧で、吹キ飛ンデシマエ、死ネ!とあざ笑う。 日没は一時問後に迫っている。 読めないインジケーター類を装置する眼前のパネルのあらゆるボタンを少年は押す。 意味のない碇泊灯が点いた。 航海灯が点いた。 海原に絶対的に消えてしまった父親のことは思いださない。 そうする余裕はない。 ステアリングホイールの左手奥にあったスイッチを押したときに、異様な感触でからだが振動した。 波濤にも烈風にも起因しない揺れがあった。 そのことに背筋を標わせたが、しかし一瞬に忘れる。 たんにスピーカーが動作したに過ぎなかった。 暴風の鳴りがきつすぎて判断できなかった、それは音楽の出現だった。少年はスイッチを押して、再生装置の電源をONにしたのだ。 装填されていた録音ずみカセットをまわしたのだ。 そのテープデッキと関連機器はすべて特注品で、航行のさなかにも耳を愉しませられるように設定されたスピーカーからの音量は常時強烈だった。 正対せずとも凪の海上ならばエンジン音に負けない。 直感は一匹の野生動物として働いた。 いまや視界に島影が認められている。そこに走る。 近づきすぎている。だからこそ荒天にもかかわらず少年の目に発見された島影だったが、見たところ海と接している周縁部にはそそり立つ崖があるだけで、このままではクルーザーはまともに突っこみ、衝突をまぬかれない。 が、速度をゆるめることが少年にはできない。 ひたすら船首の角度を変えようと奮闘した。 か細い両腕に筋を浮き出させて死にもの狂いで操舵した。 すると唐突に、島影の手前にまつわりつづけた絶壁が切れる。 蛮刀でズンッと裂かれた谷間のようなものが視認される。 砂浜がはるかに遠望された。 峡湾があって陸のふところに入り込んでいる。 少年はそこに突入した。 遠浅の入り江を突進して、船底は海水の内側で悲鳴を発した。 しかしクルーザーの速度はほとんどゆるまない。 船外機を破壊しながら砂浜に乗り揚げた。 船体は方向感覚を完全に失してガガガギガガッと瞬時に右手に振れ、不意打ちを喰らって六歳の操船者のからだは宙に跳んだ。 ぐるぐると二回転して踊って、ビーチに落下した。 叩きつけられて失神したものの、砂地に衝撃をやわらげられて助かった。 しかしクルーザーは違った。 機関部は大破した。 それから三十分後、すでに夜の帳が下りはじめている島の陸地で少年はやっと我に返る。 クルーザーはすでにエンジン音を停めていて、のみならず一切の灯火を消失し、そしてテープデッキも停まっていた。 スピーカーは沈黙していた。音楽は死んでいた。
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