「クレイになれなかった男」
についてのノート
この六十枚ほどの原稿を書いた時、それが自分にとってどれほど重要なものになるかわかっていなかった。
実人生の上でも、作品の上でも、主人公であるカシアス内藤とはこれ以降も長い付き合いを続けることになる。
もし、この「クレイになれなかった男」を、私とカシアス内藤との関わりの第一部とするなら、「一瞬の夏」は第二部ということになるだろう。
そして、「リア」は、第二部のエピローグであると共に、やがて書かれるだろう第三部のプロローグでもある。
仮に「冬の戴冠」と名付けられた第三部を構成する出来事はすでに終わっている。「一瞬の夏」から十年が過ぎたある年の冬、私たちの前に、ひとりの若いボクサーが現われ、去っていった。
いまは、もしかしたら第四部として書かれることになるかもしれない困難な現実に巻き込まれ、悪戦苦闘しているところだ。
これは一九七三年に「調査情報」九月号に掲載された。担当してくれたのは、例によって今井明夫、宮川史朗、太田欣三の三氏である。
1
リングの方からは観客の熱狂的な声援が聞こえてくる。
セミファイナルは韓国人同士の対戦だが、激しい打ち合いになっているようだ。
《いまやってる金なんとかっていう人ね、ぼくが韓国で試合するといつも前座に出てくるんだな。いつも勝つ、そしてぼくはメインイベントでいつも負ける》
そういってカシアス内藤は少し笑った。
そこへ金が引き上げて来た。顔が腫れ、血が流れている。
《勝ったんでしょ?》
内藤が訊ねた。
金は一瞬とまどったような表情を見せたが、首を振った。
内藤は肩をすくめて、ぼくと顔を見合わせた。
しかし悪い辻占ではなかった。
いつも前座で勝つ金が今日は負けた。
それなら彼のあとで三度が三度とも負けている内藤は、もしかしたら……。
ぼくが笑うと、内藤も笑った。
互いにチラとそう考えたことがよくわかったからだ。
《早くやって、早く帰ろう。暑くてたまらん》
マネージャー兼セコンドの伊藤良雄がそういった。
確かにこの控室は暑すぎた。
ガラーンとしたコンクリートむき出しの空間に、裸電球がひとつだけぶら下がっている。窓もなく暗くジメジメしていた。
椅子ひとつ用意されているわけでもない。
ドサ回りのボクサーには相応しい待遇といえるのかもしれなかった。
しかし、これからカシアス内藤が戦わなければならなかったのは、「東洋ミドル級タイトルマッチ」だったのである。
七月十四日。韓国。釜山の九徳体育館には六千人あまりの客が入った。
韓国の英雄、東洋ミドル級チャンピオン・柳済斗と元東洋同級チャンピオン・カシアス内藤の十二回戦を見るために、さらにいえば柳が日本人とアメリカ人とのハーフを叩きのめすのを見るために、だ。
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