BOOKSルーエのおすすめ本 画像
 東京湾景
著者
吉田修一/〔著〕
出版社
新潮社
定価
本体価格 1400円+税
第一刷発行
2003/10
e-honからご注文 画像
ISBN 4-10-462801-8
 
「今度こそ、信じたい」「バカな女になれたらいいのに」――東京湾岸を舞台にきらめく、寄せては返す強く儚い想い。芥川賞・山本賞受賞作家が描く、乾いた身体と醒めた心を潤すラブストーリー。
 

本の要約

「…最初がメールだったから仕方ないのかもしれないけど、なんかずっと、お互い相手を探ってるっていうか…。信じようとは思うのに、それがなかなかできないっていうか…」亮介の声を聞きながら、美緒は窓辺に近寄った。「ほんと、なんでだろうね?」東京湾岸を舞台にきらめく、寄せては返す強く儚い想い。芥川賞、山本賞受賞作家が紡ぐ、胸に迫るラブストーリー。



オススメな本 内容抜粋

第一章 東京モノレール

東京湾に隣接した船積貨物倉庫内には、まったく日が差し込んでこない。鍾乳洞のように涼やかにも見えるが、実際には天井から吊るされた白熱灯の下をフォークリフトで通っただけで、からだからじわっと汗が吹き出してくる。
亮介はフォークリフトの運転席で、バタバタとうちわで顔を扇いでいた。
倉庫にこもっている熱が、舐めるように頬に当たる。
ちょうど五時のチャイムが鳴って、終業までの残り五分を貨物の陰などに隠れてやり過ごしていた作業員たちが、「あーあ」とか、「終わった、終わった」などと口にしながら姿を見せる。
亮介はフォークリフトの前を通りかかった同僚の大杉に、持っていたうちわを投げ渡した。
うまい具合にキャッチした大杉が、指紋だらけのうちわを見やり、「なんだよ、これ」と首を傾げる。
うちわは元の紙が破られていた。
骨だけになったところに、誰かが梱包で使う透明なビニールテープを貼っている。
倉庫事務所での雑談の最申、手持ち無沙汰から誰かが紙を破り、またほかの誰かが、その骨だけになったうちわにビニールテープを貼りつけたのだろう。
途中で作業に飽きたのか、ビニールテープは片側にしか貼られておらず、もう片方の粘着面には、誰のものとも分からない白い指紋が無数についている。
亮介はフォークリフトを車庫へ入れると、運転席から飛び降りた。
こめかみにあった汗のしずくが、着地と同時に頬を流れ、無精髭の生えた顎の辺りにじわっと鰺む。
事務所への鉄階段を、大杉が疲れた足取りで昇っていく。
激しくうちわを動かしている腕が汗に濡れ、金塊のように輝いて見える。
夏場、倉庫の狭い更衣室で着替える者はいない。
男たちは各自のロッカーからバッグを取り出すと、半裸になって岸壁へ飛び出す。そしてまだ強い日差しの中、倉庫前にできた日陰で、白い背中を寄せ合い着替える。
男たちが背中を向けているほうが東京湾になる。
岸壁に外国からの大型貨物船が停泊していることもあるが、たいていは、対岸のお台場までが一望できる。
みんなから少し遅れて岸壁へ出てきた亮介は、日を浴びた東京湾を見つめながら汗に濡れたTシャツを脱いだあと、ちらっと腕時計で時間を確かめた。十八歳の誕生日に、高校の担任だった里見先生からプレゼントしてもらったこの無骨なダイバーウォッチを、亮介はもう七年もつけている。
先生と付き合っていた十代の頃には、まだ腕に馴染んでいなかったが、年を重ねるごとに、まるでからだの一部のようになってきている。
亮介が濡れたTシャツをバッグに押し込んでいると、すでに着替え終えていた大杉が近寄ってきて、「明日、休みだし、どっかで飲んで帰ろうぜ。どうせ、なんも予定ないんだろ?」と声をかけてきた。
亮介は、大杉から目を逸らした。地面に置かれた缶コーヒーの飲み口に、黒々と無数の蟻がたかっている。
「なんかあんのか?」
そう言いながら、大杉がつま先でその空き缶を倒す。
自分たちのいた場所が、いきなり垂直な面になった蟻たちが慌てふためいている。
「別に…一…」
「じゃあ付き合えよ。このまま、寮に戻る気しねえだろ?」
「…………いや、今夜はやめとくよ」
「なんで?なんか、珍しく付き合い悪いなあ。お前、なんかあっただろ?あっ、もしかして、女とかできた?……そういえば、お前、今日、誕生日じゃねえ?うちの妹と同じだったろ?」

(本文P. 5〜7より引用)


e-honからご注文 画像
BOOKSルーエ TOPへリンク


このページの画像、引用は出版社、または著者のご了解を得ています.

当サイトが引用している著作物に対する著作権は、その製(創)作者・出版社に帰属します。
無断でコピー、転写、リンク等、一切をお断りします。

Copyright (C) 2001 books ruhe. All rights reserved.