BOOKSルーエのおすすめ本 画像
 最期のキス
著者
古尾谷登志江/著
出版社
講談社
定価
税込価格 1470円
第一刷発行
2004/03
e-honからご注文 画像
ISBN 4-06-212335-5
 
「こうなってほしかったんでしょ!お母さん」 遺体を前にして娘の麗は私に向かって叫んだ。自殺から1年。古尾谷雅人夫人全真相を綴る。「こうなって欲しかったんでしょ!お母さん」父親の死を前にして娘の麗は私に向かって叫んだ!トラウマ、うつ病、DV・・・愛と憎しみの家族「再生の物語」。
 

本の要約

家族には誰にも打ち明けられない秘密がある。
傷つけあい、いたわりあいながら生きていく家族には家族しか知らない家族の履歴がある。不況、リストラ、ローン地獄、うつ病……そうした時代を生きる夫婦と子供たち。45歳の働き盛りで死を選んだ、古尾谷雅人という一人の人間を知る旅が、いま始まる――。



オススメな本 内容抜粋

二〇〇三年三月二十五日

「こうなってほしかったんでしょ!お母さん」
遺体を前にして娘の麗は叫んだ。
父親の死、それも自殺という事態に直面して、十七歳の娘が冷静でいられるはずがない。
そうとはわかっていても、
「いまは、そんなことを言っているときじゃないでしょ!」
そう怒鳴り返していた。
「なに、泣いてんのよ。本当は嬉しいんじゃないの」
麗は私を責めることばを吐きつづけながら、リビングのたんすに頭を打ち付けはじめる。
目の端に、その光景をとらえながら、私は息子の雅に向かって口走った。
「いい、いまのこの状況をしっかり覚えておくのよ。これが父親の死に直面したときの、嘘偽りのないリアクションなんだからね。あんたが本物の役者になるつもりなら、いまのこの感情、リアクション、すべての瞬間を頭に、身体に叩き込んでおくのよ」
なにを思ったのか、雅は長いとはいえない廊下をいきなり走りはじめた。
いま思えば、このことばは長年連れ添った夫の死、それも首を吊っての自殺という状況に直面した妻のことばではなかったのかもしれない。
娘にしても、いまだ首に紐を巻きつけたままになっている父親を目にしたとき、口にするようなことばではなかったのかもしれない。
けれど、現実は、ドラマとは違う。
誰かの作った脚本どおりのことばを口にするわけにはいかない。
少なくとも、私たち家族は、父親の死を前にして、こんなリアクションを起こしてしまった。
それが古尾谷家、当時二十歳の長男雅と十七歳の長女麗、そして私の現実だった。
紛れもない現実だった。
いや、違うと、もうひとりの私は否定する。
いま、考えれば、むしろそのときには、そんな場面を目にしながら、どこかドラマの一シーンのように感じていたのかもしれない。
あるいは夫の死に予知めいたものを感じ、いつかはこんなことが起きるとわかっていたのかもしれない。
けれどそれは、やはり彼が演じたドラマの一シーンでもなければ、リハーサルでもなかった。
現実だったのだ。その証拠に、彼はもう家のなかのどこにもいない。
朝、目を覚ましても、仕事から帰ってきても、夜、テレビの前でも姿を見ることはできない。
「きょうのご飯はなに」と百九十センチ近い背丈で、少し身を縮めながら、もっさり起きだしてくる夫はいない。
テレビの前に陣取って、巨人の勝ち負けに一喜一憂することも、酒を呑んでは暴れて、私を殴りつけてくることもない。
テーブルをひっくり返したり、大きな音を立てて私たち家族をびくびくさせることもない。
いまいるのは、仏壇の向こうから、あの少し照れたような笑いを、私が一番好きだったあの困ったような笑いを返してくれる夫がいるだけだ。
夫、古尾谷雅人の死、それは私にとって、彼からの解放でもあった。
あれから一年。
このごろになって、頻繁に思い出すことがある。
それは彼がよく見た夢の話だ。
彼はひとりで電車に乗っている。
場所はわからない。でも窓の外を次々と変わっていく風景で、そこが日本ではないことがわかる。
視野いっぱいに広がる草原と、ときおり姿を見せる樹木、いつまでも変わらない空。そんな景色のなかを走っていく列車。
草原を過ぎ、河を越し、遠くに見える小さな家屋が後方へと飛んでいく。
何度も、駅を通り過ぎた。
でも、その列車は止まらない。どこにも止まらない。
夢のなかで、彼は少し不安になる。
この列車は、どこに行くんだ。
終着駅は、いったいどこなんだ。
ふと周りを見回すが、電車には誰も乗っていない。
彼以外の人間は、いつのまにか降りたようだ。
でも、どこで?どこにも止まらなかったはずだ。
彼の不安は次第に大きくなる。
列車は、相変わらず、広い草原を走り、橋を渡り、進んでいく。
電車は、まるで山手線のように、同じ景色のなかをぐるぐる回っているように思える。
列車はいつまでも止まらない。
速度を落とさない。
登志江のところに帰りたい。
でも、帰れない。
彼は叫ぶ。
夢のなかで叫ぶ。
でも、電車はますます速度を上げていく。

 

 

(本文P. 6〜9より引用)


e-honからご注文 画像
BOOKSルーエ TOPへリンク


このページの画像、引用は出版社、または著者のご了解を得ています.

当サイトが引用している著作物に対する著作権は、その製(創)作者・出版社に帰属します。
無断でコピー、転写、リンク等、一切をお断りします。

Copyright (C) 2001 books ruhe. All rights reserved.