暗い運河のほとりに、その奇妙な意匠の建物はあった。
いったいいつの時代の物なのか、瘡のように生い茂った蔓が壁を被い、屋根瓦のあちこちには雑草が萌えている。
玄関は色のくすんだタイルと、建物自身の重みですっかり歪んでしまった古煉瓦で囲われ、そのきわに丸い中国風の儒子窓が、ぼんやりと灯をともしていた。そのほかにあかりの見える窓はない。
夜が更けると港から檸猛な霧が湧いた。
それがどれほど危険なものであるかは、波止場のどよめきからも知れる。碇泊する船はいっせいに舷灯をともし、おののくように噺き始める。
べつにその家を訪ねるつもりはなくとも、ひたすら人目を避け、闇を求めて歩けば自然とそこにたどりつく。夜道は運河の堤防に断たれている。
玄関の前で訪問者は誰しもいちど振り返り、ほかに選ぶべき道のなかったことを知る。
そしてたちこめる霧よりも深い溜息をつぎ、重い観音開きの扉を引く。
建物の中の空気はひどく湿気っている。扉が軋みをたててとざされると、訪ねる者はいぎなり思いがけぬ五、六段の石段を下りねばならない。
そこで初めて、人は奇妙な意匠の正体に気付く。ふしぎなことにその建物は、地面を削りこんだ半地下と、はんぽな高さの中二階とでできあがっているのである。
ふと足を止めて考える。するとその異形の構造が、けっして必然的な理由によるのではなく、長い労苦の屈従と忍耐の果てに醜く変容してしまった、人間の姿のように思えてくる。
あやうい石段を降りると、がらんとしたホールがある。
漆の剥げた朱の柱と、幾何学紋様の石の床。
壁には紅色の護符や、意味不明の装飾がやたらごてごてとはりめぐらされている。
たとえば港町の異国人街にある、道教の観の堂内のようである。
廊下の先は闇に呑まれており、そのとばくちに旧式の赤電話が置かれている。
まるでそれだけが浮世とつながった、非常のものに思える。
見上げれば、灯の落ちた天井に立派な扁額が掛かっており、おそらく名のある書家の手になると思われる金文字が読みとれる。
霧笛荘 ─ 。
なんとも捉えどころのない名だが、注意深く見れば文字の下には小さな欧文が書ぎこまれていて、この不器用な命名が外国語の意訳であると知れる。
そこで、少し想像力のたくましい人ならば、この建物が遠い昔、東洋趣味の外国人貿易商の別宅か商館だったのではないか、と考えるであろう。
たぶん当たらずとも遠からず、そのようなものにちがいない。
ホールの脇の管理人室らしい小窓から、雑音だらけのラジオの声が洩れている。
灯がゆらいで人の動く気配がし、灰色の袖を着た小さな老女が、まるで巣から這い出るように現れた。
顔には深い搬が刻まれているが、髪ばかりがビロードのように黒く、唇には血の色の紅をさしている。
ぎこちなく歩み寄ってくる足元に目をやれば、玩具のような纏足である。
老女はけっして人の顔を見ようとはせず、まるで突然の来訪者を予期していたかのように、低く眩いた。
「どの部屋も空いているから、ひとっとおり見て気に入ったのを使えばいい。見ての通り酔狂な男の建てたものだからどれもなかなか凝っていて……大丈夫、事情は聞ぎゃしない。そんなことどうだっていいさ。あんたのその鞄の中味が、札束だろうと生首だろうと、あたしの知ったこっちゃない……おいで、ひと部屋ずつ見せてあげよう。どれもすてぎな部屋さ。ちょいとじめじめしているが、あんたにゃ似合いだ」
老婆は不自由な足を曳いて、石組みの床を歩き出す。
火葬場の扉のようにしんとつらなった階下の三つの部屋の最初のひとつに、鍵がさしこまれる。
大ぎな軋みを残して扉が開く。半地下の窓から射し入る街灯の光が、六畳の部屋をまっしろに浮き立たせた。
「まだちょっと女の匂いがするね。でも悪い部屋じゃない。ほらごらん、窓から海も見える」
前の住人はいつもその窓に腰を下ろして、ぼんやり海を眺めていた、と老婆は言った。
* * *
その女が霧笛荘のホールに現れたのは、横なぐりの雨が沫く嵐の晩だった。
傘も持たず、スカーフを頬かむりにしてトレンチコートの襟を立て、持ち物といえば小さな旅行鞄を提げているきりだった。
海は鳴り、空は吠えていた。
玄関を後ろ手に閉めると、女は力尽きたようにホールの石段に座りこんだ。
懐えながらたて続けに煙草を何本も喫い、廊下に出入りする住人たちの人影にも、ひどく怯えているふうだった。
「お風呂が、あるんですね ─ 」
いくらか落ち着きを取り戻してから、女が口にした初めての言葉はそれである。廊下の突き当りの共同浴場から、温かな湯の匂いと鼻歌が流れていた。
誰もが女のすがるような視線を避けた
|