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 アンボス・ムンドス
著者
桐野夏生/著
出版社
文芸春秋
定価
税込価格 1365円
第一刷発行
2005/10
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ISBN 4-16-324380-1
 
一日前の地球の裏側であなたを待っています―― 人生で一度の思い出にキューバに旅立った若い女教師と不倫相手の教頭を帰国後待っていたのは生徒の死と非難の嵐だった。煌く7篇
 

本の要約


人生で一度だけ思い切ったことをしよう―キューバで夢のような時を過ごした男と女を待ち受ける悪意の嵐。直木賞受賞後の著者の変遷を示す刺激的で挑戦的な作品集。



オススメな本 内容抜粋

いい男がいる。宮本真希は額から汗を滴らせ、横断歩道の向こう側の若い男を凝視し続けてい
た。陽炎が立っているかと思えるほど陽射しが強く、ほんの数分の信号待ちでも辛く感じられる
暑い日のことだった。男をもっとよく観察するために、真希は片目をすぼめた。こうすると自分
が醜く、不気味に見えるのはわかっている。バイト先の女にも、兄にも言われた。ひと月前、コ
ンタクトレンズを片方落としてしまってから、金がなくて新しいのを作れないでいる。コンタク
トは左目にしか入っていないからよく見えないのだ。でも、どうせ男は自分なんか相手にしっこ
ないだろうから、どう思われようと構わない。そんな諦めと、まだ捨て切れないほんの少しの期
待とで、真希の片目はすぼまったり広がったりした。
男は携帯電話で楽しげに喋っていた。銀のメッシュを入れた肩までの茶髪。垂れ目で口の大き
な可愛い顔。頭にサングラスを載せ、眩しさに負けじと太陽に顔を向けているのはもっと陽灼け
したいからだろうか。それがいじましいとは思えなかった。褐色の肌がかっこよかったからだ。
日焼けサロンのライトだろうが、埋め立て地の埃っぽい太陽だろうが、街中の欄れた照り返しだ
ろうが、陽灼けすることに変わりはない。タンクトップから肩が剥き出しになっている。尖った
肩の骨。当たるとさぞかし痛いだろう。真希は、男の肩骨が太腿の内側の柔らかな肉に食い込む
感触を想像する。思わず小さな声が洩れ出て、隣に立っている日傘を差した中年女に怪誘な顔を
された。
歩道と並行して走る高架線から、中央線の電車の通過音が轟き渡った。日向で太陽に爽られて
いる真希は発狂しそうになって顔を歪める。話が聞きとりにくくなったのか、男も輩めっ面でオ
レンジ色の車両を見上げた。その狭量そうな表情が真希に過去のあれこれを思い出させた。男の
冷酷、男の薄情、男の豹変。途端に息が詰まり、動悸がした。もう誰にも傷付けられたくない。
真希の腰が退け、後ろを振り向いて走りだしたくなる。その時、信号が青に変わった。電子音の
「通りゃんせ」に苛付く。待っていた歩行者が、糸玉が解けるように一斉に動きだした。男は携
帯で喋りながら、こちらに向かって歩いて来る。高架線の太い柱の前で二人は擦れ違った。真希
は勇気を振り絞り、おずおずと男の顔を見上げた。一瞬眼が合ったが、男の方からすぐさま外さ
れた。おめえなんかに興味ねえよ。そう言われた気がして真希は期待していた自分が照れ臭くな
り、あらぬ方向を眺めた。右手にあるガラス張りの洒落た交番から、頬のこけた若い警官が真希
を見つめている。が、無論、気のせいだった。男を追うように若い女が三人、歩道を広がって渡
って来ていた。警官はそちらに気を取られているのだった。三人ともそっくりな格好をしている。
真っ黒に灼けた細い体に白っぽい金髪。原色のミニスカートに水色の化粧。まるでハワイのバー
ビー人形だった。どうしてこいつらは天下を取ったように堂々と歩くのだろう。真希が片目をす
ぼめて睨み付けると、一人が真希を見て軽蔑したように何か言った。ださい女と思われているの
だろう。真希は傭き、果てしない距離に思われた歩道の後半を足早に移動して、ようやく渡り終
えたのだった。
すぐ先に、真希がアルバイトしている店がある。『プランタン』という名の医薬品や化粧品を
扱っている安売り量販店だ。シャンプーやマニキュアを買い求める若い女で、いつもごった返し
ている。店の横にある狭い階段を上ろうとしたら、太鼓を叩くような音をさせて従業員が勢いよ
く駆け下りて来た。目を上げると、キャンバス地のエプロンに付けた名札がちらりと見えた。
『RYO』。涼子は大嫌いな女だ。真希は知らん顔して伏し目になったまま、涼子が過ぎ去るのを
待った。だが、涼子は階段の途中で止まり、激しい口調で言った。
「今頃来たの。早番じゃないの、あんた」
高飛車に言われるとすぐパニックを起こす真希は、しどろもどろになった。
「あたしは今週から遅番て言われたと思うけど」
「嘘。ローテーション見てよ」
きっぱり返した涼子は、階段を下り切って真希を見下ろした。ただでさえ背の高い涼子は、更
に厚底のサンダルを履いているから百八十センチ近い大女だ。百五十センチそこそこの真希はど
んなにかかとの高い靴を履いても敵いっこない。威圧されて、頭の上から落ちてくる甲高い声に
耐えるだけで精一杯だった。
「じゃあ、見てくる。変ね」
「変ね、じゃないよ。佐々木さん一人だったんだから謝った方がいいよ」


(本文P. 7〜9より引用)



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