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自動ドアを開け、客を乗せたとたん、腐った柿の匂いが車内に満ちた。
他人の酒の匂いは臭い。タクシーの運転手になるまで、そんなことも知らなかった。少し前ま
では、自分も夜は酒を飲み、帰りが遅くなればタクシーを使う人間だったからだ。
まもなく午前一時。この時間に乗せる客はたいていが酔っているから、いちいち気にしていた
ら仕事にならないのだが、しらふで運転している身には胸が苦しくなるほどのアルコール臭に、
いまだに慣れることができずにいる。鼻から息をしないようにして、後部座席に声をかけた。
「お客さん、どちらまで行きましょう」
「ふあぎなか」
酔っぱらいの声は必要以上に大きい。大きいのに聞き取りにくい。もう一度、尋ねた。
「ふあんぎにゃか」
ますますわからなくなった。「三木坂？」
「ふあみにかや、だよ」
「すいません、道順を教えていただけますか。このあたりは不慣れなもので」
このあたりもなにも、タクシードライバーになってまだ三カ月。実は東京の道のどこもかしこ
もが不慣れだった。
客は露骨に不機嫌になり、命令口調の言葉と臭い息を吐きつけてくる。ろれつの回っていない
言葉の断片を拾い集めて、室内灯をつけ、ドライブマップをめくっていると、後続のタクシーか
らクラクションを鳴らされてしまった。とりあえず十メートルだけ前進する。今度は後部シート
から舌打ちが飛んできた。
客の言葉に従って地図をたどり、ようやく「萩中」という地名を見つける。こっちが舌打ちを
したくなった。駅前のこのタクシー乗り場からは、深夜でもメーターが三、四回転しかしない場
所だ。首尾よく信号にひっかかり続けたとしても、千円いくかどうか。一時間も並んでいたのに、
ハズレを引いちまった。表示板を「賃走」にし、アクセルを強く踏みこんで、自分にかわってエ
ンジンに不満の声を上げさせる。
最終電車が出た後の駅づけは、一発勝負のギャンブルだ。長距離の客をつかまえれば、昼の間
にワンメーター、ツーメーターとこつこつ稼いでいたのが馬鹿らしくなるほどの営業収入が出る。
しかし競馬やＬＯＴＯと違って、乗り場に並ぶ客を選べるわけじゃない。客が告げる行き先です
べてが決まる、まったくの運しだいの賭け。
ワンメーターも行かないうちに、後ろからいびきが聞こえはじめた。おいおい、頼むから、た
った千円ぽっちで、面倒をかけないでくれよ。
後部座席のハズレ馬券を叩き起こすために、荒々しくハンドルを切り、赤信号で急プレーキを
踏む。客を乗せている時は、要望がないかぎりつけてはいけない規則になっているカーラジオの
スイッチを入れた。
チューニングは交通情報を聴いていたＡＭ局のまま。お笑い芸人の騒々しい声が流れてきた。
いつもならさっさとＦＭ局に変えてしまうのだが、耳が痛くなるぐらいまでボリュームを上げる。
起きたかな。ルームミラー越しに後部シートへ目を走らせた。ミラーは一般車よりずっと大き
い。「お客さま」へ常に気を配るように、という会社の方針のためだが、気を配るのは客のご機
嫌ではなく、「お客さま」に無賃乗車か強盗を働く可能性がないかどうかだ。男の衿もとのバッ
ジに気づいたとたん、あわてて目をそらして、ラジオを消す。
信号が青になった。今度は起こさないように、そろりとクルマを発進させる。助手席に掲げら
れた運転者証を隠したくなった。
「牧村伸郎」という自分の名前と顔写真を見られたくなかったからだ。
特徴的な逆三角形をしたその社章を見間違えることはない。おととしまで伸郎が勤めていた都
市銀行のものだ。
もう一度男をうかがう。個性の主張をかたくなに拒否したスーツとネクタイ。保守的な髪形。
誰もを同じ顔に見せてしまう眼鏡。よくよく見れば、男は典型的な銀行マンだ。
老けた顔をしているが、たぶんまだ三十代、伸郎よりいくつも年下だろう。他人の金を扱う信
用商売だから、実年齢より上に見られることは、銀行員の資質のひとつなのだ。