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 てのひらの迷路
著者
石田衣良/著
出版社
講談社
定価
税込価格 1575円
第一刷発行
2005/11
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ISBN 4-06-213125-0
 
石田衣良が贈る、美しくちいさな24の物語。恋愛、小説、そして母との別れ…。石田衣良が2年をかけて大切に書きつづった掌編小説集。
 

本の要約

耳元で囁くように、書きました。
石田衣良のパーソナルな声がきこえてくる、贅沢な、贅沢な24篇のショートショート。24のまえ書きつきです。

石田衣良のたどってきた道とその素顔をはじめて明らかにする極上の小説集。

いつか小説を書くことになったら、このことを書こう。集中治療室の外のベンチでぼくはそう考えていたのだ。だからこの本は、今はなき母に捧げようと思います。――<本文より>



オススメな本 内容抜粋

77 1 58 65 14 0 61 39 2


目のまえのホワイトボードに書かれた数字をぼんやりと見ていた。この三日間毎日十二
時間ずつ見ているので、目をつぶってもその数字が消えることはなかった。ぼくが座って
いるのは濃い灰色のベンチだ。合成皮革でできていて、なにもクッションがはいっていな
いのではないかというくらい硬いかけ心地だった。廊下には規則正しい間をおいて蛍光灯
の青い光りが落ちている。ここには窓がないので、一日の変化は腕時計のなかに刻まれる
だけだ。最初の夜はこのベンチをベッド代わりに、夜明けまえの数時間仮眠をとったので
ある。
そこは下町のターミナル駅の近くにある総合病院だった。ホワイトボードがおかれた廊
下の右側には、白いビニールカーテンで目隠しされた集中治療室が十二並んでいる。カー
テンは人が出入りするとき以外は動かなかった。いつか病院が取り壊される日まで、その
部屋に風が吹き抜けることはないだろう。集中治療室は九つまで埋まっている。数字は患
者たちの年齢だった。その横には手術の日程と簡単な病状がつけたされていた。
ぼくの母は三番目の58で、この七十二時間意識がもどることはなかった。外出先で倒
れ、三日まえの夜に父とぼくが病院に到着したときには、深い昏睡状態に落ちていたので
ある。
医師は手術で回復する見こみのない脳出血で、ぼくたちに覚悟するようにといってい
た。医者はいつだっておかしなことをいう。入院の準備、親戚への連絡、つきそいと駆け
まわっている生者などより、母の額やてのひらや足の指先はずっとあたたかかったのだ。
ぼくと父はそれから交代で廊下に詰めることになった。昼のあいだは大学を休んだぼく
が、夜になると仕事を終えた父がベンチに座る。母につきそうというより、なんだかベン
チを占有する権利を守っているようだった。ぼくは本を読むのが好きだったけれど、その
廊下にいるあいだ、本も雑誌も読むことはできなかった。母の死を待つのはしびれるよう
に長い時間で、何度か挑戦はしたけれど、活字は乾いた砂になってさらさらと意味を失い
目からこぼれていくのだった。
父とぼくは母の話はしなかった。まだ昔話をするには時期が早かったし、お互いにひど
く疲れていたからだ。父は三日間で頬が落ち、目がくぼんでいた。きっと鏡を見たら自分
の顔も同じなのだろうとぼくは思った。食事は入院患者をもうひとり増やさないという目
的のために定時にとっていた。食欲はまったくなかった。なにをたべても味はしない。
入院二日目の午後には、母の女学校時代の友人だという女性がふたり訪ねてきた。カー
テンを開けて生命維持装置につながれた母をしばらく廊下から見つめると、そのうちのひ
とりがいった。
「ほんとうにいい人だった。いいお母さんだった。あなたも力を落とさないで、がんばっ て」
その人は目を赤くしていた。月なみな言葉には恐ろしい力があった。静かだった心のお
もてが破れ、感情があふれだしてしまう。母の友人はふたりとも初対面で、そんな人たち
のまえで泣くのは嫌だったが、それでも涙がとまらなくなった。
母が倒れてから泣いたのはそのときが最初で、泣きすぎて頭が痛くなったぼくは、ベン
チに座り、また目のまえにあるホワイトボードの数字を見つめる作業にもどった。九つの
数字を見ているあいだが、一番心休まる時間だったのだ。数字には悲しみも喜びもなかっ
た。ただ誰かが生きていた時間がカウントされているだけだ。九人分の三百十七年間には
いったいどんなことがあったのだろうか。
ぼくは数字を足したり、引いたりしながら、ぼくに割りあてられた時間がすぎるのを待
った。
翌日の夕方にガールフレンドが見舞いにきてくれた。彼女は同じ大学のアメリカ文学専
攻で、サリンジャーとロスは読んでいるけれど、トゥエインとメルヴィルは読んでいなか
った。ぼくは大学で学びたいことがなかったので、親がすすめるまま経済学部に入学して
いた。その日は土曜日で、ベンチを立ちあがった父に彼女は白いユリの花束をわたした。
季節は梅雨にはいるまえの一瞬の夏で、彼女は淡いブルーと白のサッカー地のサマードレ
スを着ていた。きつめの袖口からのぞく二の腕は豊かに丸く、集中治療室の暗い廊下をま
ぶしいほど照らしだした。
彼女からお見舞いの言葉をもらうと、父は気をきかせてくれた。財布から紙幣を抜くと
ぼくにわたしていう。
「ふたりでなにかおいしいものでもたべてくるといい」
帰りに弁当でも買ってこようかといったが、父は疲れた顔で首を横に振った。彼女とぼ
くは廊下を歩いてエレベーターホールにもどった。父が見えなくなると、ぼくは数歩遅れ
てあとをついてくる彼女にいった。
「悪いけど、母のことは話さないでくれないかな。なるべくいつものデートみたいに普通
にしていてもらいたいんだけど」
彼女は青いハンカチーフで押さえていた目をあげて、不思議そうな顔をした。
「あなたがそういうなら、いいけど。だいじょうぶ」
自分がだいじょうぶなのかよくわからなかったけれど、笑ってうなずいた。母が倒れて
からいつも地上十センチくらいのところをふわふわと浮かんでいる気がすることは、彼女
には黙っていた。


(本文P. 10〜13より引用)



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