書名
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賢帝の世紀 ローマ人の物語 \
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著者
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塩野七生
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出版社
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新潮社
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定価
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本体 3000円(税別)
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ISBN4−10−309618−7 |
ローマ帝国に輝ける世紀をもたらした トライアヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス。 傑出した指導者の「資質」をつぶさに描く | |||
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読者に 実を言うと、今の私は困り果てている。その困惑の原因をたとえ話で言い換えれば、次のような感じにな るかと思う。 ローマ史の授業を受ける学生の中に、タキトゥスという名の優等生がいた。なぜ彼が優等生かというと、 教授の質問に他の学生たちがそれぞれの考えを述べた後で展開する彼の意見が、その簡潔な文体と使う言語 の選択の的確さと、まるで見てきたかのような臨場感あふれる描写力によって、他を圧倒するのが常であっ たからである。アイツはできる、と脱帽したのは仲間の学生たちにかぎらず、教授までがいちいちうなずい ては、同感の意を示すのが当り前のことになっていた。 だがここで、後方の席から私が手をあげて発言を求める。そして言う。これこれしかじかの史実までも視 野に入れて考えれば、タキトゥスのくだした解釈とはちがう解釈も可能ではないでしょうか、と。実際、私 の『悪名高き皇帝たち』は彼の『年代記』、私の『危機と克服』は彼の『アグリコラ』と『同時代史』があ ってはじめて成り立った作品なのであった。 ところが、夏休みが終って大学に戻ってみると、彼の優等生の姿がない。学生仲間に問えば、父親の任地 換えとかで転校したという。はてさてどうしたものやら、と私は困り果ててしまったのである。 なぜなら、この第\巻で取りあげようとしているのは、トライアヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピ ウスの三人の皇帝である。紀元九八年から一六一年までの時代だ。タキトゥスの没年は二一〇年とされてい るので、この三皇帝全員の治世をあつかった著作までは求められないのは当然だが、九八年から一一七年ま でであったトライアヌス帝の治世ならば、彼さえ書こうと決めれば書けたはずである。しかもタキトゥスに は、トライアヌスをとりあげる気持がなかったのではない。紀元六九年の内乱からはじまって、残存してい るのはその一年間についての叙述だけにしろ、おそらくは九六年のドミティアヌス帝の暗殺までが書かれて いたであろうと思われる『同時代史』の冒頭に、次の一文を記しているからである。 もしもこれを書き終えた後でもわたしにまだ余命が残されているならば、その老年期は、神君ネルヴ ァと皇帝トライアヌスについて物語ることに費やすつもりでいる・・・・・ ところがタキトゥスは、読者へのこの約束を守らなかった。といって、執筆自体をやめたのではない。ネ ルヴァとトライアヌスは書かなかったにしろ、初代皇帝アウグストゥスの死の後からはじまって皇帝ネロの 自死で終る、『年代記』のほうは書いたのだから。 ちなみに、紀元五五年に生れ二一〇年に死んだとされている歴史家タキトゥスの生涯と時代と著作との関 係を表にしてみると次頁のようになる。 なぜタキトゥスは、五十代半ばから六十代にかけてという歴史家にとっての最良の時期に、叙述の順序か らしても『同時代史』の続編になるネルヴァとトライアヌス両帝を書かずに、『同時代史』の前編ともいえ る『年代記』の執筆のほうを選んだのか。 現代の研究者の中には、存命中の権力者をとりあげるのは何かと不都合が予想されるので、タキトゥスで も過去の皇帝たちを書くほうを選んだのではないか、と言う人がいる。タキトゥスよりは一世代若かったス ヴェトニウスも、『皇帝伝』でとりあげたのはユリウス・カエサルからドミティアヌスまでで、ネルヴァ以 降の皇帝たちはとりあげていないから、この推察は的を射ているのかもしれない。 しかしタキトゥスは、『同時代史』を書き終えた後でもまだ生命が残っていたら、ネルヴァとトライアヌ ス両帝についても書くつもりだと述べた同じ箇所で次のようにも記しているのである。「史料も豊富である うえに、どう判断をくだそうとそれをどのように表現しようと身の安全を心配しないですむ、まれなる幸福 な時代であるから」。それでいながら彼は書かなかった。当初は予定していなかった『年代記』を書き終え た後で書くつもりでいたのに、余命のほうがつきてしまったのであろうか。 本文 P.7,8 | ||
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