ある朝、世界は死んでいた
 
 
  恋愛 ・ 学校 ・ 戦場 ・・・・・セカイが壊れても、タダじゃ転ばない 新世紀初の評論集!  
著者
切通理作
出版社
文藝春秋
定価
本体価格 1762円+税
ISBN4−16−357020−9

第一章

ある朝、学校で

批評めいた文章を書いていると、よく訊かれます。「結局、どうずればいいんだ?」私はいつも結論を出すために書いているのではありません。しかし私の答が聞きたい方もいると想定して、この本はそれを各章の冒頭で記すことにします。まず第一章で語られる学校についてですが、私は「三十歳卒業論」を唱えることに決めました。高校を二十歳で卒業、大学卒業は二十六歳、専攻科などを加えると三十歳で卒業にする。そう。昨年言われている「学校教育のスリム化」とは正反対の立場です。学校の役割を縮小して自己責任を増やすという考え方は確かにスッキリはしているものの、結局強者しか生き残らないという点で偏っています。教養も育てられず生きる力が稀薄、三十歳でやっと成人式にふさわしい。今はそんな人間があまりに多いと思いませんか。不況の中で労働力をどうするかという意見もあると思います。「甘えるんじゃない!私は学校なんか行かなくてもちやんと生きてきた」と言う方もいるでしょう。そこで、ある一定の就労期間を含む社会活動を単位としてつけられるようにします。長い学校生活では、農業を種撒きから収穫まで経験する授業もあります。平行して飛び級制度を取り入れます。発達や成長を年齢にのみ当てはめるという現在の価値観は、ここでも考え直されなければいけません。学校に対しての反抗的な態度も、それ自体、学校が必要だということの証明です。「卒業」してしまえば彼らの反抗する対象もなくなってしまいますから。これが私の学校の学校論です。なに、すべてがもう遅い?自分はもう「卒業」してしまったって?そんな方は、これから私と一緒に校門をくぐり、教室の扉を開けてみませんか。

ホワイト・アルバム

-----県立所沢高校生との対話

「日の丸」?「君が代」?それって何?

すべてメディアで語られることだけが真実なのさ!

雑誌や本に文章を書くようになって、かれこれ五年以上になる。マスコミの世界にいるという実感ばそんなにはない。もちろん、第三者に向けて書く場を持っているという自覚は持つべきだが、かといって、誰もが自分の事を知っているという程でもないし、民衆を煽動する力をもつ程でもない。そんな立場を背伸びして目指そうとも思わない。知名度ば仕事を切らさない程度にあればいい、と思ってきた。自分の書くものは、いわばスキマ産業だと思っている。世の中にあってもなくてもいいもの。あえて価値を見出すならば無用の用とでも言うほかない。もっと大きく言えば、あらゆる文化というものはそれでいいのではないかとも思っている。大声で何か言う。そんな時代が終わりつつある頃に、私は物書きデビュー出来た。

冷戦が終わり、論壇誌も声高に何かを言う時代ではなくなった。自分の足元を見つめ直す。ハブルがはじけた後だったので、そんな言われ方もした。ところが、ここ数年、また時代は逆戻りしたような気がする。見えにくくなっていた左右の区別は、おたがいのまぼろしを作り出してでも論争を続ける。彼らは言うであろう。平地に乱を起こしてでもや らねばならぬ。自分たちは、世の中を面白くしているんだと。でも、その「面白さ」ってなんだろう。ものを味わう舌の退化した人間が、より強い刺激を求め続けているだけではないのか。たとえば歴史教科書論争。たとえば教育問題。ここ二十年で新任教員の加入率が激減し、また社共から民社、連合へと支持母体が変遷していった日教組をいつまでも仮想敵国にし、時代をさかのぼって元凶を求める。

片や、人権を至上命題に、子どもへのあらゆる抑圧と戦おうとする。そうした対立が過去のものであり、不毛である事ば自覚している。だけどそれがマスコミであり、そうしなければ持続していかない。それが商業主義なんだ。甘い事言ってるやつはプロの自覚がなり……そう言われれば押し黙るしかない。だが、そんなことをしている内に、マスコミという世界が人々の実感から遠くなっていると思うのは私の勘違いだろうか。私が子どもの時、メディアの人間というのは、遠い山の彼方にいるような存在だった。だが今、そう思っている若い人はいるのだろうか。スポーツの選手がマスコミにつっけんどんに接するのに喝采を送る若者たちを見ていると、マスコミ幻想というものは崩れかかっているのではないかと思ってしまうのである。

公立高校の学園ドラマ

国旗・国歌法案が成立する前の年、九八年に起きた話題として県立所沢高校の問題があった。校長の方針に反発して、自分たちで入学式典を行った生徒会。私は当初、先生と生徒の対立なんて、そんなに珍しいことなのだろうかと思った。入学式典の当日、校門の前から、この「事件」を一日中報道しているワイドショーやニュース番組を観て、奇異な感じがした。冗談ではなく、学校に誰かが籠城して、人質でも取っているのかと思ったくらいだ。やがて雑誌メディアに話題の場所が移り、左は「いまどき珍しい若者たちだ」と喝采を送り、右は「子どもに人権などない」と批判をくり返した。

そして「どっちもどっちだよね」という、左右の対立を前提として、はぐらかすような「醒めた」ポーズで話題はしめくくられようとしていた。私は、そのどれにも違和感があった。私自身は所沢高校のような公立ではなく、私立の和光高校というところを出て、和光大学に進学した。大学時代、公立の新設校から進学してきた友人や先輩に話を聞くと、その自由な空気に驚いた。和光高校も、校則が厳しくないとか、制服を着なくてもいいとか、そういう意味では自由だったが、いわば私立のおぼっちゃん学校であり、シラケムードが漂い、いわゆる自主性などというものは稀薄だった(当時)。

しかし、八王子や府中の公立校から来た彼らに話を聞くと、生徒会が色んな体育祭や文化祭、卒業式と行事を取りしきり、先生たちともタメで話し合っていたという。色鮮やかな高校時代の思い出話をする友人や先輩のいきいきとした表情を見ると、一時期の少女漫画にあった、生徒会長がヒーローで、主人公のヒロインに憧れられるような世界が現実にあったのだなと思えたものだ。所沢高校のやり方が良くも悪くも問題になるのは、最近はそうした公立校が減ったからだろうか。国民の血税で通う公立で、お上に逆らうなどまかりならん。やるなら私立でやれ。論壇誌でそんな意見も眼にしたが、私立を出た私の立場からすると、公立だからこそ社会との接点が生まれ、そこで生徒が自主的に活動できるのではないかと思う。

医療保険で守られているから、どんな治療をされても医者には文句は言えないのかといったら、むしろ逆だろう。自分の子がいじめられたら困るので、中学は私立に行かせよう──今の時代、そんな親のリアリティを耳にしたことがない者はいないだろう。私立だからいじめがないという認識はどうかと思うけれど、公立の学校にいながら、自主的に活動しようとしている子どもたちがいるなんて、むしろ希望ではないか。

『生徒人権手帳』の怪

その頃、パソコンを導入したばかりの私は、インターネットで試みに「県立所沢高校」と打ち、検索してみた。すると、所沢高校の外部シンパによるホームぺ−ジがあり、高校内部で配られた生徒会のプリントや親の会の報告など、関連文書が豊富にそろっていた。入学式と同時に自主的な式典を行った事の賛否についても、新入生にアンケートを取っており、「校長がんばれ!」という声もそのまま載せている。公正な手続きには気を配っているのが感じ取れ、好感がもてる。一時間程それらを読んでみると、世間で言われているようなイメージとはまったく違うことに気づいた。

生徒会について心情的には批判的な姿勢ではない私でさえ、いつの間にか事実のように認識していた事の中でも、ニュアンスが違う部分が見られた。まず校長側では入学式で歌わせたかった『君が代』について。生徒会がこれに反対していたのは、歌うか歌わないかの自主性を尊重しているのであって、『君が代』そのものの解釈に踏み込んではいない。それは一人一人に考えてほしいという態度だ。

だから一部論壇誌で攻撃されていたような、イデオロギー的な要素は彼らの態度からは感じられない。また、細かい事で言えば、生徒手帳の問題がある。所沢高校の生徒手帳にば「セックスする自由」なる項目がある、と「SAPIO」誌の『新ゴーマニズム宣言』で読んだ記憶があった私は、ホームページに採録された生徒手帳の記載事項を読んでみたが、そんな項目はどこにもない。おかしいと思って『新ゴーマニズム宣言』を再確認してみたら、所沢高校の問題について描かれた漫画の欄外にこう書かれてあった。

「『生徒人権手帳』によれば『自分の服装は自分で決める権利』『いかなる物でも教師に没収されない権利』『集会・団体・結社・サークルと政治活動の権利』『職員会議を傍聴する権利』『学校外の生活を干渉されない権利』『学校に行かない権利』『体カテストを拒否する権利』『不都合なことをしても学校に通報されない権利』など、あらゆる子供のエゴが『権利』になるらしい」(「SAP10」九八年六月十日号『新ゴーマニズム宣言』第六巻所収「自由な校風が子どもの人権?」)いったい『生徒人権手帳』とはなんなのか。よく読むと何にも書かれていない。普通に読めば、やはり所沢高校で流布されたものだと思ってしまう。

すると、副読本として、生徒会によって作られたものなのか?この『生徒人権手帳』については、『文嚢春秋』など他の複数のメディアにも記載されていた。やがて、私はその答を知ることができた。『生徒人権手帳』とは三一書房から出版された単行本で、所沢高校の生徒が出した本ではなく、まったく独立した書物であることを。おそらくテレビ報道のとき、生徒会室に同書が置いてあるのが写ったのであろう。私はオウム事件の頃、仕事柄、麻原彰晃の著書やオウム出版の出した本を三十冊以上購入し、今でも本棚にあるが、それだけをもって私をオウム信者とすることは出来ないであろう。と同じで、『生徒人権手帳』が置いてあったからといって彼らと同一視し、そうした見方が出来やすいように出版社や著者など、この本が誰によって作られたかという主語を外して書くのは、あまりにもひどいフレーム・アップだと感じられた。

この『新ゴーマニズム宣言』は、所沢高校に対する批判的ステロタイプの内、もっとも極端で、また影響力の大きい例であろう。小林よしのりは、自らの分身を所沢高校ならぬ「所左派高校」に送り込み、セックスが自由ならばと女生徒をレイプさせ、すべてが自由ならば勉強も好きにしてよく、先生の言う通りにする必要はないとアジらせる。そのことによって、逆説的に、所沢高校の生徒会が言うような「自由」を愚かなものと誹る。こんな学校を許せば秩序は崩壊してしまうとばかり、事実を歪めてまで彼らの主張をおとしめ、ギャグとはいえレイプしてみせるなど、子どもの人権を至上命題とするわけでもない私でさえ「大人が高校生相手にやっていいことなのだろうか」と、しばし暗澹たる気分になった。

このように、ヒステリックなまでの「所沢高校叩き」が起こったのは、生徒会に十人以上の弁護士がつき、校長相手に戦っているという、背景にいる「人権派」の大人たちへの反発があるのだと思う。たしかに私も、弁護士まで付けなくても………という思いを抱かなかったといったら嘘になる。記者会見を開いたことに関してもそうだ。しかし、ホームページを見ると、今春の入学説明会において、校長の意図だけでばなく自分の意見を喋っただけで教育委員会から戒告処分になった教員がいたことがわかった。つまり、これは労働者である大人どうしの問題でもある。だったら色んな闘争の仕方があっていい。それにしても、戒告処分の事についてほとんどのメディアが触れていないのも気にかかった。

そして取材へ

小一時間程度ホーム。へ−ジを見ればわかることが、何故、多くのメディアに載っていないのだろう。疑問に思うのと同時に、物書きとして、彼ら本人から話を聴いてみたいという欲求が起こった。しかし、そうした欲求にブレーキをかけている自分もいた。単純なマスコミ批判の材料に彼らを使ってしまうことは、相手が未成年だけに控えたい。そこで、この話を持ちかける媒体には慎重になろうと思った。結果、仕事上つき合いのあるメディアの中で、毎日中学生新聞に声をかけてみることにした。以前、所沢高校生徒会長のコメントが載っていたのを目にしたから、生徒会に連絡がつけやすいのではないかという読みもあった。この新聞には、よく中学生や高校生の声を同世代向けに紹介するというコーナーがある。そういう種類の記事の一環としてなら、論壇相手に肩ひじ張る必要もない。彼らの高校生としての素顔を知りたいとも思った。本文P.8〜13

 

 

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