鬼子母神
 
 
  第一回ホラーサスペンス大賞 特別賞 「内なる暴力の、現実の悲しみ。この筆力あってこその、この恐怖」・・・宮部みゆき  
著者
安東能明
出版社
幻冬舎
定価
本体価格 1600円+税
ISBN4−344−00052−8

女の子は胸に当てられた聴診器を不安げに見ていた。医師の手が動くたびに息を止めて、横にいる若い母親に顔を向ける。睫毛が長く、三つ編みにした髪の毛が肩まで伸びている。緊張しているのか、裸になった胸はせわしなく動いている。開け放たれた窓から入ってくる湿った風に吹かれ、おでこの髪が朝露に濡れた撫子の葉みたいにゆらゆらと揺れ、首筋から肩にかけて、とりたての桃のように薄っすらと生えた産毛が初々しい。他人の子とはいえ、その愛らしさに惹かれて、知らぬ間に工藤公恵は、息の吹きかかるほど近くに顔を寄せていた。「どこか、痛いところとかない?」と公恵は声をかける。女の子は一度母親の顔を見てから、安心したように公恵の顔を振り向き、微笑んでこっくりとうなずく。

素直で愛らしく、限りなくもろい。その顔を公恵は少しばかり当惑した思いで見つめた。赤の他人に、これほどまで安心しきった表情を見せることが、かえって苛立たしい。公恵はおどけるような仕草で、もう、終わりだからねと声をかけた。母子手帳に異常なしのゴム印を押して、子供の手に渡してやる。母親はその場で膝立ちになり、素早くピンクのTシャツを子供の首から通した。南保健センターのホールには、人の声や子供らのはしゃぎ回る音が充満していた。公恵は努めて無表情をよそおい、投げかけてくる目線を無視した。全く、新人は健診の補助すらまともにできない。

公恵は壁時計を見やった。午後一時半から始まった健診は、早一時間が過ぎようとしていた。強気な母親の態度にあてられたせいか、重く湿ったものが胸元にこみあげてくる。これまで平静を保ってこられたのが嘘みたいだった。甘い蜜のような空気の満ちているホールから抜け出したいという衝動にかられた。気づかないうちに、さきほど見かけた男親が目の前にいて、華奢な男の子の肩に手を当てていた。慌てて、公恵は自分の仕事に戻った。男はジーパンに太いベルトを締め、尻に鍵束を吊るしている。体を動かすたびに、それらがちゃりちゃりとこすれあい、不快な音をたてている。男の表情は真剣そのもので、医者のいうことを一言も聞き洩らすまいとしている。

男の子の右の黒目は、やや内側によっているが、内斜視でないのは公恵にもわかった。内眼角贅皮のため、一見、内斜視に見える幼児がいる。案の定、男はしつこく医師に眼のことを問いただしている。医師はペンライトを子供の眼に当てて左右に動かし、角膜検査を繰り返した。それが済むと、医師は男の意見を受け入れる形で、ボールペンを取り、無造作に精密健診が必要との診断書を書きあげる。公恵は診断書を受け取り、後日、精密健診が無料になる受診券に同封して送ることを丁寧に告げた。男は深々と頭を下げ、納得した様子で子供を連れて退散していった。二人はそのまま保健指導の席に進み、保健婦の前に座り込んだ。

右隣に、宮内をてこずらせた母親が子供を抱いたまま、心理相談員の田代久美子の前に座っていた。ぴんと背を伸ばして母親の言葉に耳を傾けている田代だったが、いくらか困惑している様子が窺える。健診が終了し、医師が帰ったのは、午後三時半を回っていた。手早く長椅子を合わせて、その場で事後検討会が始まった。当番の保健婦が電卓を叩き、報告を始める。「受診予定者数は七十五人で、受診者は六十三人です。え−と、受診率は……八十四。パーセントになりました」数字に口を挟む者はいない。「精密健診の受診票が出たのは、三人だけでした。内斜視と停留睾丸、それに蛋白尿です」話題は言葉の遅れに移った。これだけの数をこなすと、言葉の発達が遅れている幼児が必ずいる。その一人一人に対して、受け持った保健婦が感想を述べたり、心理相談員が専門機関の紹介をしたりする。

三歳になれば、おむつがはずれ、足を交互に出して階段を上れるようになる。親から離れて友だちと遊び、初めての反抗期が訪れるのもこの頃だった。「あのお母さん、何ごねてたの?」公恵は、たまたま隣に座っている宮内につぶやいた。健診の最中、自分が無視したことで、嫌味の一つでも出ることを覚悟していたが、宮内は薄化粧の染み一つない顔を前に向けたまま答える。「心室中隔欠損症じゃないかって言い張るんです」年のいっているわりに、この宮内という子は素直かもしれないと公恵は思った。入所してくる保健婦たちの年齢は様々だが、宮内は、同期の中でも最年長で、今年、二十九歳になるはずだった。どこで、道草を食ったのだろう。珍しく公恵は興味が湧いた。

「難しい言葉知ってるのね、その人」「看護婦だったみたいなんですよぉ」なるほどと思う反面、公恵は疑問を感じた。真性の心室中隔欠損症ならば、三歳以前に発見されているのが普通だった。看護婦ならば、見落とすはずがないだろうに。「心室と心房を間違えているって、後で先生は仰ってましたけど。心房中隔の欠損症は発見が遅れるみたいですから」「で、見つかったの?」宮内は首を横に振った。 「いいえ、正常でしたよ。先生だって、何度も聴診器当てましたから。でも、あのお母さん、自分が昔、胸を病んだからって言って、しつこいんです。だから、先生もむっとして………」心配性な母親はどこにでもいるが、引き下がったところをみれば、納得して帰っていったのだろう。その母親の連れてきた幼児が座の話題になっていた。相談に当たった心理相談員の田代は、誠実な話しぶりで説明を始める。

「お母さんは気がつかないけど、ちょっと難聴があるのかなあ、って思うんです。話してる時、チックが出たりしました。今度、言葉の教室に来てみてはどうですかって、一応、伝えておきました」言葉の遅れや発達心理の相談は、保健婦が最も不得手としている。公恵と同じ母子保健係に配属されていた田代は、大学院でユング派の心理学を修めていた。二十七歳という若さにもかかわらず、保健婦たちの信頼は厚い。熱心に耳を傾けるなかで、たった一人、宮内だけは冷めた表情で田代の言葉に聞き入っていた。それから十分ほどで検討会は終わり、会場の片付けを他に任せて、公恵は二階に戻った。

センターの二階には、三つの課がある。公恵が勤務している健康増進課には、三十名の保健婦が在籍しており、人数からいって最も大きい課だった。健康増進課は、区民全般を対象にして一般的な保健婦業務を行う健康相談係と、妊婦と乳幼児だけを対象にした母子保健係の二つに分かれている。対象が限られているせいで、公恵の勤務する母子保健係は、総勢五名という小世帯だった。受付カウンターの脇に、こぢんまりとまとまり、いかにも健康相談係の軒先を借りているといった趣だった。係には、訪問から帰ってきたばかりの保健婦が二人いて、熱心にメモを取り、係長席では、本城金江が俯いて書類に目を通している。その斜め前の席に公恵は座った。本城は机にあるB4の紙を伏せて、腰のあたりをもじもじと動かしている。

ものを頼む時の癖だ。本城は公恵が入所した時に、指導員として一年面倒をみてくれた。結婚してはいるが子供はいない。訪問する際、くどいほど「薬のんだ?」と相手に訊くのが癖で、アリナミンというあだ名が付いている。案の定、本城は紙を横滑りさせてきた。公恵は紙を眺めてため息をついた。やはり、あの件だった。このところ、都から移管された不燃ゴミ処理施設の煙突から出る排気物のせいで、住民から気管支炎や喘息の問い合わせが増えていた。区には、保健所機能を持った四つの保健センターがあるが、処理施設と隣接した北保健センターの保健婦は、連日、その訪問業務に追われている。幸い、公恵の勤務する南保健センターは五キロ近く離れており、苦情は出ていなかったが、健康相談係に属する保健婦は、毎週、三名程度、応援要員に駆り出されている。

紙には、びっしりと住民の名前や住所が打ち出されていた。電話番号以下にガフキー号数と月数の欄があり、それぞれ、3や2といった比較的高くない値が入っている。月数という欄が、咳の持続月数であることはすぐにわかった。最後の欄には、通報した医療機関と医師の名前が記されている。最近になって、結核患者が区内でも増え始めていた。その訪問指導の人手が足りず、応援を依頼する腹づもりなのだろう。それが伝わったのか、本城は深刻そうな顔付きになっている。「最近、こんなでしょ」本城は恐る恐る切り出した。

「割りあてはどれくらいですか?」公恵は探りを入れてみる。「十かな、それとも二十くらいかしら……正確にはねえ」世帯数を言っているのか、個人を指しているのか、判断がつかなかった。表にあるガフキー号数は、どれも4以下で、咳の持続月数は2または1だった。これをかけた数値が10以上になると、最重要値となるが、リストにあるのは最大でも6だった。それでも、危険度は高い。公恵は独り言をつぶやくように、「確か、ガフキー号数が1というのは、喀痰検査で塗抹標本に…」「一視野に一個から四個」「でも、ガフキーが陽性になるということは、喀痰一ミリリットル中に結核菌が五千個必要じゃなかったかしら?」本城は否定し、七千個と答える。公恵はしばらく黙り込んでリストを見つめた。

「課長には、まだ通してないんだけど、あなたに訊いておこうと思ってねえ。うちには、ゴミ処理施設の方も回ってこないし、健康相談係の方もエイズが多くなつちゃって困ってるらしいのよ」「ひょっとして、このリストの家庭、妊婦がいるとか?」「当たりい。それと新生児」「一番ややこしいじゃないですか」「だから、あなたに頼むのよお。ほかの二人にもお願いするからね」本城は、ずけずけとした物言いに変わってくる。今年の四月、主任に昇進したばかりの公恵には、断ることもできなかった。 三歳児健診の片付けが終わり、保健婦たちが戻ってきた。まわりが、急に騒がしくなる。宮内が隣に座った。そこは、田代の席だったが、まだ戻ってきていない。宮内は公恵を気にすることもなく、健診票の中から、今日の健診に来なかった受診予定者のカードを引き抜く作業を始める。

公恵はリストを机にしまい、ノートを取り出して、二枚の新生児訪問カードが挟み込まれたぺ−ジを開いた。宮内は作業をしながら、公恵の手元に流し目をくれている。やはり、健診の時に宮内を無視したのが気に入らなかったのだろうか。宮内は作業をやめて公恵の手にしているカードに目を当てていた。カードが引き抜かれてあるのは、なにがしか問題が発生しているケースであることを宮内も承知しているのだろう。「ほんとは、来ない人の方が危ないんですよね」宮内は目をそらし、カードを束ねながら言った。今頃、そんなことに気がついたのか、この子は……。皮肉の一つも言ってやりたい気分だったが、公恵はこらえた。家庭に問題がある場合、保健婦や医師が目を光らせている健診会場に足を運ぶことが自然と少なくなる。だからといって、少人数の母子保健係では、未受診者全ての家庭を訪問するわけにはいかない。先週の木曜日、南保健センターの管轄内で児童虐待通報が入った。

公恵の手にしているカードは、その時の虐待されていると思われる子供の新生児訪問カードだった。子供が生まれた場合、ひと月以内に区から委託された助産婦が訪問して、子供の身体測定をしたり、育児の指導をする制度がある。訪問した助産婦は、カードを作って記録を残しておくしくみになっている。生まれてきた子供に先天性の障害があったり、親が未成年など、養育環境が整っていなかったりした場合、虐待の引き金になりやすい。そうした家庭状況を調べるには、まず、このカードに当たってみるのが手っ取り早い方法だった。通報は匿名の男性からだった。まず、区役所の福祉課に電話が入り、そこからセンターに回されてきた。被虐待児と思われる渡井弥音は、平成十年一月生まれの女児で、三歳五カ月。新生児訪問カードには、保育環境に問題ありとされている、保護者欄には、『江原昭夫』という名前が記され、内縁の夫という但し書きがついていた。「弥音ちゃんがどうかしましたか?」宮内が言ったので、公恵は思わず振り向いた。

「この子のこと知ってるの?」「だって、さっき……」「三歳児健診?」「元看護婦だったっていうお母さん、いたじゃないですか。難しい字書くから覚えてますけど」「ああ、あの」宮内はうなずいた。 「……で、あのお子さんがどうかしたんですか?」公恵は口をつぐんだ。月齢からすれば、今日の健診予定者として渡井弥音へ通知が送られているはずで、そのことに気づかなかった自分がうかつだった。気づいていれば、十分注意して観察できたはずだ。それにしても、虐待通報のあった当の親子が健診に姿を見せるとは……。公恵は渡井家の虐待通報を受けていたことを宮内に話した。「おかしいですよお、それって」宮内は首を傾げる。

「体、すごくきれいでしたし、どこも異常なかったですよ。さっきも言ったとおり、心臓だって、守田先生が太鼓判押したくらいだから」本当にそう言いきれるかどうか。身体への危害を加えることだけが、虐待ではない。心理的な危害を加えたり、養育を放棄したりすることも虐待のうちに入る。静電気を当てられたみたいに、あちこちで跳ね上がり額のあたりは心なしか薄くなっている。こんな髪で今日一日過ごしたのかと思うと情けなくなった。ダッシュボードの中にある櫛を取り出して、髪に当ててみるが、抜け毛の多さに驚いて、公恵は慌てて櫛を元に戻した。生理がこなくなってから、二週間目に入ろうとしていた。それもこれも、食べ物が喉を通らなくなったのが原因ということを、公恵は自覚していた。

口に入れるものがみな、脂肪の塊に見えてきて、体の中に入れたら最後、燃えることなく確実に肉となることがわかっている。一度とりっかれた不安から今は逃れられない。あれは三月の末か、それとも四月の頭か。娘と二人きりの生活に入った日、突然、それはやってきた。明日はとりあえず仕事がある。理由は山ほどあるから、午後も居残って残業をすればいい。家に帰らない理由はいくらでもある。そう言い聞かせて、公恵はキーを回した。大宮の交差点で、水道道路を南にとるのが社宅のある祖師谷への近道だった。けれども、公恵はそうせず、まっすぐ西に向かって走り続けた。大宮八幡宮の南を回り込むように信号のない裏道をとり、五日市街道に入った。相変わらず渋滞はひどかったが、社宅は少しずつ遠のいてゆき、それだけで体が軽くなったような気がしてくる。吉祥寺の街並みに入ってからも、あたりは明るかった。

市政センター近くの駐車場に車を停め、厚手のトレーナーを着込んでJR吉祥寺駅方面に歩きだす。高級百貨店の建ち並ぶ駅北口の雑踏に足を踏み入れると、蒸発したみたいに頭から仕事のことは消えていた。半袖姿の女子高生たちがたむろする。パルコの前を通りすぎ、もう一度駅に戻って銀行の並ぶ通りを北に向かった。いつも何気なく入ってしまう東急百貨店を通りすぎる。きれいにデコレートされた店のウインドウをぼんやり視界の隅に入れながら、伊勢丹の地下に下りていく。冷房がきつく、背中から体全体に痩れるような悪寒が走った。冷気は遠慮なく体の隅々まで広がっていく。こんな中を半袖で歩く人たちの気がしれなかった。我慢して商品を手に取って見た。

自然食品のコーナーに毒々しい色をしたザクロエキスがあり、『無添加100%濃縮果汁』という言葉に惹かれて、一万円札を差し出す。店員に一番大きな袋に入れてくれるように頼み、次の陳列棚に移る。そこでも買い物をし、一階まで階段を使って上がる。紙袋はずっしりとした重さになっているが少しも苦にならない。かえって気持ちが安らいだ。サテンの生地の上にちりばめられた宝石を眺め、プラチナ台のペンダントをショウケースから出してもらう。四万円をわずかに切る値札を確かめる。店員は次から次へと商品を並べる。結局、ニ万円のシースルーペンダントに決め、カードを差し出す。

チェックを待つ間、ずっと手が震えていた。半年前、支払不能でカードが使えなくなったことがある。愛想よくカードを返してくれたので安心して受け取ることができた。足は自然と二階のグランドフロアに向いた。ボーナスシーズンを迎えて、思いの外、若い客で混んでいる。美しくレイアウトされた店の前で、中を覗き込んでいる若い女のグループがあった。奥の壁に小さくプリズマレイのエンプレムが光っている。高級店なので入るのをためらっているのだろう。公恵は彼女らの脇を通りすぎ、店の中に入った。店員は公恵の存在に気づかないみたいに、グループにしきりと声をかけている。本文P.3〜17より

 

 

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