プロローグ
未だ真新しさの残っている駅ビルの階段から、帰宅する雑多な年齢の人々が吐き出されて来た。建物の壁や舗装されたターミナルの道路からは、今でもペンキやアスファルトの或る種独特の匂いが時折鼻を衝く。再開発の名の下に新築されたこの駅ビルと、ターミナルから北側へと真直ぐに伸びているやや狭い道路を挟む昔乍らの姿を呈した商店街の猥雑さとは、矢張り何処か少し隔世の感が有るのは否めなかった。12月の陽は、とっくに暮れていた。
空気も、足元から這い上がって来て髪の毛の先迄も締め付ける程に冷たい。高校帰りの亜希が通り過ぎて行く商店街の店々……その全てが信仰とは特に何の関係もない筈なのに、クリスマス風に色とりどりの電球を点滅させ、綿の雪を飾り付け、商魂遅しく通行人達の購買意欲をそそろうと頻りに賑やかな音楽と大声で誘っている。それは、21世紀になっても、全く代わり映えのしない見慣れた年末の光景であった。亜希は、途中で1軒のケーキ屋に入った。
女主人が、亡くなった夫の遺志を継いで子供達と3人で切り盛りしている、この商店街でもどちらかと言えば老舗の部類に入る店だった。が、夫に相当仕込まれたのか、その女主人のケーキ職人としての腕は確かで、何といってもスポンジとクリームが他の店とは決定的に違うと亜希は思っていた。幼い頃から、誕生日やクリスマスともなれば必ずここのケーキを母親は買って呉れたし、そうでなくても、何かあれば事ある毎に亜希と母親は向かい合ってこの店のケーキの味を楽しんだ。亜希のお気に入りは、昔も今もモンブランだった。
今が正に書き入れ時の店内は、手狭な所為もあって想像以上の混雑振りだ。暖房と熱気が一遍にむっと押し寄せ、亜希の全身に纏わり付いて彼女の強張っていた皮膚を弛緩させた。
「おばさん!」亜希が、背伸びをし乍ら幾つもの頭の羅列越しに、ショーケースの向こうの女主人に声を掛けた。制服姿の亜希を見つけた彼女の表情が和らいだ。「亜希ちゃん、今帰り?」「はい。学校終わってから友達と一寸お茶しちゃって。明日から冬休みだし」悪怯れもせずハキハキ話す亜希に、女主人が、笑顔を崩さずしかし半ば諭すみたいに言葉を投げ掛けた。
「……お母さん、あんまり心配させないでよ?」「判ってます」「予約の引換券、持って来た?」亜希が、小さな紙の券を掲げて見せた。女主人は、手招きし乍らレジ脇まで亜希を誘導した。「私、未だ一寸悩んじゃってて……チョコも美味しいけど、フルーツも棄て難いし……クリームだって絶対だし……」引換券を手渡した亜希は、身を振り乍らショーケース内に陳列されているデコレーションケーキを順に眺めつつ咳いた。「はい、じゃこれ」一旦奥に引っ込んだ女主人が、やや大きめのケーキの箱を差し出した。亜希は、受け取ると微笑んでみせた。
「ありがとうございます」「そんなに食べられるの?」からかう様な女主人の口調に、亜希が自信あり気に答えた。「あたし1人だってペロリですよ」「ほんとに?」
「だって美味しいですから」「そう……嬉しいなあ」亜希の屈託のない笑顔に釣られ、女主人も微笑んだ。「気を付けてね」「はい。それじゃ」「ありがとう。又よろしくね」女主人の穏やかな眼差しを背に、亜希はケーキの箱を自分の肩より上に上げてガードし乍ら、客達の間を慎重に歩き出した。不意に、女主人がもう1度亜希を呼んだ。「亜希ちゃん!」不自由そうに振り向いた亜希に、女主人が満面の笑みで言った。
「……メリークリスマス!」亜希も、一瞬きょとんとした後、照れ臭そうに挨拶を返した。「…メリークリスマス!」店の外は、空気が身を切る程に冷たく鋭かった。全開になっていた毛穴が再び覚醒し、一気に収縮するのが判る。─
急ごう。亜希は、コートの襟元を確かめマフラーに顔の下半分を埋める様にし乍ら、心持ち足を速めた。店を数軒行き過ぎた時、脇道へと続く角に、海外の某清涼飲料水メーカーの広告がルーツと言われる、お決まりの赤い上下と帽子に白いヒゲを蓄えた妙に身体付きが若々しいサンタクロースが、風俗店の看板を右手に無言で突っ立っていた。
辺りの馬鹿騒ぎとは自分は無関係だと言わんばかりに、この寒空の下、1人熱気から遠ざかっている。左手には、宣伝用なのだろうか、膨らませたゴム風船を5、6個握っている。そして、その様な状況のまま微動だにしないのである。風船だけが、寒気に微妙に左右に揺れている。亜希は、その姿形が変に可笑しくて思わず含み笑いをした。目深に被った帽子と殆ど寒さ避けの為としか思えない位に顔中を覆っている付けヒゲの中心に在る相手の両眼が、反応して素早く動いた。
亜希の顔から笑いが消えた。「何笑ってんだよ」サンタクロースが言った。自分では凄味を効かせたらしかったが、そのトーンは僅かに甲高くて重々しさがなかった。未だ若い男の声。亜希は、関わり合いたくないとそのまま無視して行こうとした。男の眼が追い、今度は声高に怒鳴った。周囲の騒音にも負けない声が、亜希の背中に浴びせられた。「何だお前!人のこと馬鹿にしたみてえに笑いやがって!」亜希が足を速めても、その声は後を尾けてきた。
商店街の客や通行人の視線が、ドミノ倒しの様に亜希の前から後ろへと流れた。「おいコラ!そこの淫乱女子高生」逃げんのか!どうせエンジョとかやってんだろ!俺にもやらせろよ!お?」風俗店の看板を担いだサンタクロースが、卑猥な暴言を吐きながら女子高生の後ろを歩いている。亜希は、ただ恐ろしさばかりが先に立って駆け出そうとした。が、それより身軽く前に回り込んだ風俗店の看板が、彼女の行く手を遮った。
看板が横にずれて、奥からサンタクロースが顔を出す。「シカトかよ、あ?何とか言え、コラ!」巻き舌で男が捲し立て、そのまま亜希の眼を覗き込む様に顔を近付けてしげしげと観察した。亜希は、その場を動けず、眼を合わせないよう顔を背けた。と、次の瞬間、それ迄サンタクロースの全身に法っていた殺気と緊張感が消え失せた。彼の声が、丸みを帯びた。「……どっかで、会ったか?」何気に顔を上げた亜希が見たものは、ついさっきまでとは別人の様な柔らかい眼だった。
2人は、通りのど真ん中で向き合っていた。行き来する通行人達は、2人を避けようとそこで左右に分かれ乍ら、邪魔者を見る眼を2人に残して次々歩き去って行く。亜希の手を掴むや、サンタクロースが道の端へと亜希を移動させた。何故か、彼の瞳を見た亜希には恐怖心がなくなっていた。サンタクロースの手は、随分長い時間をこの寒い中で過ごしたのだろう、氷みたいに冷たかった。「……どっかで会ったろ」通りの隅に来て、サンタクロースが又言った。「……会ったろ」亜希が、サンタクロースの白いヒゲを指差した。
「……ヒゲ」「え?」「……そのヒゲが有るから、私、あなたの顔よく判りません」気付いて、サンタクロースが、ゴムで耳に引っ掛けてある頬から顎にかけての大きなヒゲを喉元迄下ろし、鼻の下のヒゲも毟り取った。その下から現れたのは明らかに大人の顔ではなく、未だ未発達の線の甘さが見受けられる若者のそれだった。「……見覚えない?俺に」自分の顔を指差す男に、亜希は首を振った。「……いえ……」「うっそお」
「……いえ……ホントに……」「うっそ、マジで?もっとよく見ろよ、ほら、ちゃんと」男が、馴々しく亜希に自分の顔をぐっと寄せた。「……あの……」「思い出した?」「……これって、ナンバですか?」男の表情が変わった。でもそれは、鋭さはあっても何処か子供っぽい雰囲気を多分に残したものだった。「ナンパだあ?冗談言うなって!俺はさ、仕方なくこういう格好してんだよ!ナオシさんに頼まれてさあ!あの人に頼むって拝まれてさあ!俺だって、ホントはシブヤとかブクロとか、あっちのもっといいトコの店に行きたかった訳よ!でも、ナオシさんには世話ンなってるしさあ!やつぱ、あんだけ頼まれりゃ、断れねえよなあ……クリスマスだってのによお……こんなアホくせえバイト……つたく、やってらんねえっての……」男は、最後には愚痴の独り言みたいにぶつぶつと文句を言い出した。一方、亜希は、男の顔付きや態度や言葉遣いを知るに付け、どう考えても自分と同い年位ではないかと思い始めていた。
そして、男が抱えているファッションヘルスの原色で毒毒しい看板を見た。思わせ振りな文言に、ウインクしている女性のイラスト……。年齢17、18の若者が、こういうアルバイトを任されている。亜希は、彼の素性とそのナオシなる人物を想像していた。「お前だって、1人じゃねえかよ。クリスマスだってのによお」男の言葉に、亜希は我に返った。「普通よお、こういうイベントってのは、男と過ごすもんだろ?」
「……それは、人それぞれだと思いますけど」亜希も、負けじと言い返していた。普段ならこういう類の男など相手にもしないのに、すっかりペースを掻き乱されている。むきになっている自分が……何時もとは少し違う自分がそこに居た。「そうかあ?それじゃあ、寂し過ぎんだろお?第一よお、誰と食う訳よ、そのケーキ。まさか、家族仲良く、なんて事はねえよなあ、いい年してよ」男が、大切そうに亜希の手に握られているケーキの箱を指先でびんびん弾きながら言った。慌てて亜希が、箱を遠ざける。「母親と食べるんです。いいじゃないですか。あなたに関係ないでしょう?」そう言って、亜希が男を横眼で見やった。男は、馬鹿にした笑いを浮かべて更に突っ掛かる。「そんで、パパからプレゼントとか貰う訳かよ」
「……………」 「お前、何時迄家族ごっこやってる訳よ。あ?」「……父親は居ません。死んだんです。だから、家族ごっこは出来ません」やや沈んだ様子で、亜希がぼそりと言った。男の眼に、瞬間生真面目そうな色が浮かんで、そして即座に消えた。「……ふうん………ま、そういう事もあらあな……ウン……」「……………」初めてこういつたシリアスな状況に出喰わしたのか、男は調子が狂った様子で棒立ちになっていた。亜希も、この気まずい様相で何をどうしたらいいのか判らず、そこから動けなかった。商店街は相変わらず賑わっている。この2人の空間だけが、エアポケットみたいに異なった空気の流れの中に在った。やがて居たたまれなくなったのだろう、男は、軽く一つ咳払いをすると無言でロヒゲを鼻の下に張り付け、顎下のヒゲも元の位置に戻してサンタクロースに復帰した。
「……これ、やるわ」そう言って、彼が赤いゴム風船を差し出した。その表面には、何故か笑顔のミッキーマウスが居る。「……笑うだろ?ミッキーだぜ、フーゾクと何も関係ねえじゃん……ナオシさんがさあ、雰囲気だって言ってさ………」断る理由が見付からなかった。「……どうも……」亜希は、糸を受け取った。赤い風船が、亜希の顔の斜め上にぽっかり浮遊し、ミツキーマウスが左右に揺れた。男は、たった1度の笑みを眼元だけで亜希に見せると、看板を肩に担いで通行人の波に乗って引き返して行った。何とも言えない不可思議な時間だった。─
何だろう……?自分も警戒心が失せていた。彼が言った通り、以前会った事の有る顔見知りだったんだろうか?……いや……やっぱり記憶にない……でも、全然不安のない、この何故か懐かしさすら覚える感覚は何処から来るんだろうか……一体……。
亜希は、サンタクロースの赤い帽子が消えて行くのを見送り乍らそんな事を考え、そして家路へと再び足を踏み出した。遠くで、急にサンタクロースが大袈裟に片足を持ち上げて立ち止まった。正面のサラリーマンが、済まなそうに頭を下げた。どうやら、サラリーマンが足を踏んでしまったらしい。カラフルに包装されリボンのかかったプレゼントを持っている。サラリーマンは、愛想笑いを浮かべて謝っていた。その笑顔が凍り付いた。サンタクロースの頭突きがサラリーマンの顔面に入った。猫科の動物を思わせる俊敏な動きだった。反動で相手の顔が後方に仰け反り、彼の足元がぐらりと縺れた。プレゼ
ントが地面に落ち、彼の鼻下が赤く染まり始める。
サンタクロースは、よろける彼のコートの襟元を引っ掴むと、有無を言わせず路地裏に引き摺り込んだ。2人の姿が見えなくなり、でも通りの喧騒は以前のままだった。新興住宅地の中に入ってしまえば、駅前のあの雑然とした色合いは嘘の様に薄まってしまう。ケーキの箱を片手に風船を片手に、亜希は家路を急いだ。吐く息は白く、街灯が等間隔で地面を照らす白さが、一層寒さに拍車を掛ける。眼の前に、小さな細かい白いものが舞い落ちて来た。─
雪?クリスマスに雪が降るなんて、何か出来過ぎてるなと亜希は思った。道理で昨日より冷える訳だ。
何処か遠くから、雪だと叫ぶ幼い声が聞こえた。空中に漂う白は、あっという間にその数を増し、互いの間隔を狭めて星1つない闇夜を漆黒一色から変えていく。いきなり、腹の底を細かく震わせる小さな轟音が遠くで唐突に響いた。と、思う間もなく、低く高く捻る音の固まりが瞬間移動したみたいに亜希の後ろに出現した。夜の静寂は破られた。幾つものヘッドライトの光が、亜希の前に彼女自身の長い複数の影を作る。反射的に亜希は、走って通りの先を右に曲がると、歩道に入った。間を置かずに、5台のバイクが物凄い音でエンジンを吹かしながら続いた。4台は、車道に入った。1台が、急角度で曲がり歩道に乗り上げて来た。タイヤが軋み、又スピードが加速する。
亜希は、背中に明るさを感じながら逃げ続けた。樺に掛けたショルダーバッグが、腰の周囲で激しくバウンドする。考えている暇はない。恐怖が、顔に走る。凄まじい爆音に隠れながら、男の怒鳴り声が微かに響いた。「……んか、コラ!」
本能的に、亜希が真横にステップした。その直ぐ傍らすれすれをバイクが風の様に突き抜けたその時、バイクの何処かか、或いは乗っている奴の何かが、亜希に接触した。悲鳴を上げる暇すらなかった。弾き飛ばされた身体を立て直そうと不自然に踏み出された亜希の足は、体重を支える機能を果たしていなかった。
全身が奇妙に捻れて、泳ぐみたいに彼女の両手が宙を掻いた。ふつ飛んだケーキの箱が、裏返しになって地面に叩き付けられた。亜希は、動きのままに為す術もなく背中から落ち、縁石に後頭部を打ち付けた。形容し難い鈍い乾いた音が亜希の耳の奥で鳴った。そのバイクは、ガードレールの切れ目を縫って歩道から車道に移ると、前方を行く暴走集団の最後尾に付いた。ハの字をきって、車体が大きく左右に揺れる度に、バイクの一部が地面と接触して細かい火花が上がる。男達の矯声、バイク音………それらが忽ち小さくなり、聞こえなくなった。亜希は、ぼんやりと眼を開いていた。糸の切れたマリオネットみたいに、両手両足をだらりと投げ出していた。制服のスカートから覗いた生足が寒々しい。
離れた場所で、歪にひしゃげているケーキの箱。瞳孔は開き切り光を消失し、温度のないコンクリートの上で動かない右手の中指から伸びた糸の先に、中途半端な高さで行き場のない赤い風船のミッキーマウスが笑顔で止まっていた。亜希を包む冷気と冷地が、急速に彼女の生きていた証を奪い始めていた。顔は徐々に白くなり、最初の内は肌に落ちては溶けていた雪片も、既にその形状をはっきりと残しつつある。最早、亜希は生命の抜け落ちた単なる肉塊へと変わり果てていた。ついさっき迄の元気に歩いていた亜希は居ない。一瞬の先に地獄が在る、時間の残酷さだけがそこに在った。本文P.3〜13より
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