聖水
 
  芥川賞受賞作 小説の王道、物語の面白さを書ける人だ。 ・・・・石原慎太郎・・・・スーパーの経営権をめぐって繰り広げられる暗闘。死にゆく者にとって信仰とは、救済とは何なのか。・・・  
著者
青来有一
出版社
文藝春秋
定価
本体価格 1333円+税
第一刷発行
2001/2/20
ISBN4− 16−319890−3

ジェロニモの十字架

孟蘭盆にあのひとは帰ってくる。はるばると数百キロメートルの距離を旅して、生れ故郷のこの土地へ帰還する。彼は異端のひとであった。いつの頃からか僕は、その叔父の卑しい横顔を『ジェロニモ』という洗礼名で意識するようになっていた。そのひとは母の弟、すなわち僕の叔父にあたる。しかし母たち兄姉たちは誰もこの弟を歓迎はしない。まるで眼には見えないかのように話しかけることも、暮しぶりを訊ねるといったこともなく、そのひとを無視しようと試みる。そのように冷たく扱われるなら、たぶん誰も再びそこに帰る気にはなれないだろう。

だが、ジェロニモ叔父は孟蘭盆には不思議に帰うてくるのだ。まるで去年のことは忘れたかのような顔で、堂々と、なんの臆することもなく。そのことの意味を僕たちはもっと早く考えてみるべきだった。兄姉たちは弟を無視はするが、あらかじめ座る場所は準備する。入口に一番近い末席ではあるが、ちゃんと涼しげな麻の座蒲団を置き、コップや器や箸は、客人を待つ料亭のように揃える。それは祖母の遺言が未だに影響力を失っていないためなのか、それとも兄姉たちの弟への心理的な債務といった、ある複雑なうしろめたさのせいなのか、僕にはよくはわからない。

その席はちょうど奥の仏壇に対持する位置で、そこに座れば、赤や紫に染められた和菓子や、 まだ尻のほうに緑の残る夏みかんやセロファンに包まれた蒼い葡萄が供えられた位牌と向き合うことになる。椅麗に揃えられた朱塗りの箸や、輝くコップの縁を眺めていると、なぜかその席が盆に帰ってくる先祖の霊のために設けられていたもうひとつの場所にも思え、僕はそのひとをまるで死んだひとのように感じるのだった。濡縁を覆うように立て掛けられた二枚の葦簾を透かして、庭先に生えている無花果の樹が見える。

真っ白な夏の日射しの中でそれは蒼々とした葉を輝かせている。母たちは月遅れの盆の十四日にそれぞれ結婚した相手方の家の墓参りをすませ、十五日の午前中の涼しいうちに、菩提寺である光徳寺の青来家の墓で手を合せる。その後で一番上の兄である彰太郎伯父さんが守る青来の家に集まるのが習わしだった。そこで彼らは冷やしたソーメンや、寿司や、出前の皿うどんで、遅い昼食を共にして、夕方まで過ごす。それから精霊流しを見物しながら、郊外の住宅地に散らばったそれぞれの家へ帰っていく。

市の中心部は家を建てるにはすでに飽和状態に達しており、新しく家を建てようと思えば、郊外にしか土地を求めることはできない。整然と区画整理がなされモデル住宅が建ち並ぶ郊外は行政区域は長崎であっても、多くは それらしい雰囲気は微塵もなく、全国至るところに忽然と出現したニュータウンと呼ばれる灰色の住宅地なのだった。そのような場所に比べれば青来の実家があるこの寺町界隈は、古い長崎の、それも教会や石畳といった観光地として知られた長崎ではなく、いくつかの大きな寺の前に職人や商家が集まった門前町の風情が残されている。

思案橋の電停で降り、途中で母方の青来の墓のある高台にのぼり、それから再び長い坂道を下って寺町のその界隈に戻る。大きな山門のある寺が並び、石垣の連なる寺の門前には、町家らしい格子窓の木造家屋も確かに残っている。石垣に沿って歩けば楠の巨木が四方に拡げた枝葉は境内から溢れ、白い寺の塀の外にも心地よい木漏れ日がまだら模様を描き、時がためらいながらゆっくりと流れる。なにも変わらないではないか、僕は青い空虚そのものの、雲ひとつない輝く空を仰いだ。

夏の光が黒い瓦を輝かせ、桜の樹木で周囲を囲まれた駐車場の一角には、荒縄で太い竹と角材を接続した精霊舟が置かれていた。舟は飾りつけの最後の段階で、三人のステテコ姿の初老の男たちが、夕方の旅立ちを前に、蓮や桃の造花を『みよし』や屋根に飾りつけている。帆には墨の濃淡を生かして、伸びやかな筆触で巧みに阿弥陀如来が描かれ、背後にはにじんだ線と円で柔らかな日輪を配し、その上部の余白にやはり柔らかな達筆で『西方浄土』と大書してある。夜になれば提灯に火が点り、その舟はゆっくりと荘厳な鐘と賑やかな爆竹の音に包まれ街を流れていくだろう。

葦簾はすでにいくつかの夏を越え、色鯉せて目が粗くなり、感光した白黒フィルムでも眺めるように遠くの景色が透けて見える。白い光の中、無花果の樹の彼方に山の斜面に乾いた牡蠣のようにびっしりと貼りついた家々。なにも去年とは変わりはしない、この風景も、こうしてあの叔父さんを待っている親類たちも、この夏の時間もなにもかも。ただここでじっと凝視する自分ばかりが変貌してしまい、一個の異物になってしまった。無花果の木陰をひとつの人の姿が通過した。葦簾を透かして、それは墨絵のにじんだ影が動き出したかのように見えた。

逆光の中、顔は穿たれた穴のように暗い。無言のまま母に視線で合図 を送ったが、傍らに座った赤ん坊を抱いた従妹の綾ちゃんと話をしている母は、こちらの合図に気づくことはない。十ヵ月前に僕は癌に冒された声帯をそっくり切除してしまい声を失った。生れてはじめて死を強く意識し、それがどれほど恐ろしく耐え難いものであるかを知った。あの不安は特権的な不安で、不安の王と呼ぶに相応しい不安だ。どのような深い眠りの底であっても、あれは確実に語りかけてくる。

たびたびそれに悩まされ、真夜中になんども叫びながら跳び起きた。あたりは消毒薬の匂いが濃密に漂う深夜の病棟の重苦しい闇ばかりだ。あの時は生きることさえできるなら、声を失おうが、手足や、たとえ顔を失おうがどれほどのことでもないと考えた。それから自分が死ぬくらいなら、父や母や、恋人の啓子が代わって死んでくれればいいのにとも考えた。どれほど自分が救い難いエゴイストであるのか僕は思い知らされた。癌の宣告から半月あまりは、僕は恐慌状態に陥り、醜態のかぎりを曝した。「もう大丈夫だよ」と手術の後で担当の医師に告げられた時には、この世界のなにもかも、病室の枕元に置いてあったマグカップやスプーンや、白い水鳥の細長い首のような一輪挿しや、リノリウムの床、シーツの皺までもが内部から輝きを放っているように見えた。

すべての輪郭がなんと明瞭であったことか。それから少しずつ世界から輝きが褪せ、再び日常に包まれていくにしたがって、僕は声を失ったことがどんなに憂欝なことであるのか気がつき始めた。僕が失ったのは声ばかりではない。声と同時にひそかに結婚の約束もしていた啓子も失った。手術が終って、喉に分厚い包帯を巻いた僕は毎日のように見舞いに通ってきてくれた彼女に長い手紙を託した。それは便筆十枚にも及ぶ僕がそれまでに書いたもっとも長い手紙だったのだが、そのなかで僕はふたりの結婚について、あらためて再考する猶予を与えたのだ。─ふたりの結婚のプランに、僕が声を失うという事態は想定されていなかった。きみはあらためてこの事態について考えて決断する権利を有する。

果たして喋れない者と、これから五十年に及ぶかもしれない時間を暮していけるものか、どうかじっくりと考えてもらいたい。もしも、それができないというのなら、あの話は白紙に戻してもかまいはしない。もしも、なにか負い目から、きみが僕と一緒になるとしたら、それ以上に互いの不幸はない。ボランティアではないのだから、ひとつ遠慮しないで率直に返事をしてほしい……。そのような主旨の手紙だった。ほんとうのことを告白すると、連綿と便筆十枚もの長い文章を綴りながら、僕は啓子が結婚を断わるという事態をほとんど想像しなかった。

むしろ、この障害はふたりの絆を強めることになるだろうとひそかに期待さえしていた。まさかこの世界に、哀れな自分を捨てることができる女性が存在するとは思いもしなかった。ところが彼女は僕が考えていたより遥かに現実的な女性だった。彼女からの返信は『ありがとう』という感謝の言葉に始まり、『ごめんなさい』の謝罪の言葉で結ばれる便筆一枚の短いものだった。つまり、言いにくい気持を敏感に察して配慮してくれたことへの感謝と、一緒に暮していく自信がないという、率直な謝罪の言葉。まもなく彼女は病室に来なくなった。

それから幾つもの夜、僕は思いがけないくらいの輝きを放つ性欲に急襲され、重い沈黙の圧迫感の下で交尾を中断された虫のように身悶えを繰り返した。そして白濁した体液で汚れた指を拭いながら僕は粘りつく闇を凝視する。沈黙するということは、じっと自分の内側の深みに眼を凝らすことなのだ。僕の体内には大き な空虚が拡がっている。折れた古木にしばしば見られる大きな虚、静かに湿った深い空虚。そこで声にならない言葉はいつまでも反響して、やがてふいに暗闇に溶けてしまう。その虚は声帯を切除したことによって生じたのではなく、おそらくはずっと以前から、たぶん言葉が殖えていくにつれて、それもまただんだんと体内で拡がってきたはずだ。

いっこうに姿を見せない弟を、それまでは暗黙のうちに待っているようであった伯父伯母たちが、ついに諦めて箸を握ったちょうどその時、玄関で低い呼び掛けの声がした。母たち兄弟姉妹の一番上の兄にあたり、この祖母の仏壇のある古い木造の家の主人である彰太郎伯父さんが、奥さんのかな子伯母さんに眼でそっと合図をした。かな子伯母さんは窮状に陥ったかのような俯き顔でひとり玄関に迎えに出て、なぜか首のあたりまで真っ赤にして帰ってきた。そのすぐ後からジェロニモ叔父はのっそりと部屋に入ってきた。まず彰太郎伯父さんが、それから母が、最後に奈美子伯母さんが小さな叫び声とも溜め息ともつかない「ああ……」とか「おお……」といった驚きと嘆きの声を発した。

それから透明な恥辱が親族である兄姉たちを満たした。それはそれぞれが抱え込んでいる空虚に互いの捻りが反響しあうように聞こえる。この人々の体内にも同じ虚が拡がっていることを僕はひっそりと感受した。一年ぶりに再会する弟の薄汚れた身なりを彼らは素早く点検するが、禁欲的と形容しても不思議ではないくらいの態度でなにひとつ訊ねようとはしない。そのひとは手に犬の死骸のように痩せた黒い皮のショルダー,バッグをぶらさげ、臆するふうもなく堂々とした足取りで部屋に入り、かな子伯母さんが示した、僕の傍らの席に腰を降ろした。

かすかに酸っぱい身体の臭気が鼻孔を襲う。かな子伯母さんが頬を染めていたのは、ジェロニモ叔父が身体全体から発するこの臭気のせいなのだろう。古い木造家屋の室内はどこからか外の陽射しがにじみ入ってくるように不思議に明るく、そのひとが腰を降ろして顔にかかる白髪混じりの長い髪を掻き上げた時、逆光の中でその痩せた指と艶のない髪から無数の塵がゆっくりと宙空に漂う。誰もがなにも言わないで、彼を無視する。そのひとはこけた頬を徽のように覆う灰色の髭とたえず鼻先を撫でる艶のない長い髪の隙間から、一人の兄とその妻、二人の姉、そして、姪と甥を睨み、それからしばらく姪が膝に抱いている赤ん坊を鉱物のような感情の片鱗も窺うことのできない眼で眺めた。誰もが彼から眼を背け、黙々と寿司を食べ始めた。

それは信じられないくらいのよそよそしさで、伯父伯母たちがこの弟を嫌っているのがよくわかる。だがジェロニモ叔父は無頓着だ。考えてみれば、その周囲の雰囲気を感じる皮膚感覚の麻痺は、このひとのなにかが壊れている兆候であったのかもしれない。すぐに彼は手酌でビールを注ぎ、旨そうにゆったりと喉仏を上下させながら、まずグラス一杯を呑み干して、身体の芯からとめどなく溢れてくる火照りがようやく冷えていくといったふうな、少しばかり間のぬけた安堵の表情を見せた。その余裕のある態度は、冷ややかに眺める周囲の眼にはむしろ傲慢に映るだろう。隣に座らせられた僕はさすがに黙って無視していることもできないで、しかたなく二杯目をグラスに注いでやるのだった。

灰色のズボンに詰襟の長袖の上着といった彼の身なりは、古い記録映画で見た復員兵の姿にどこか重なり、僕はこの国の月遅れの盆が戦争の終った日であることをあらためて思い起こしもする。すでに半世紀の時間が流れたが、この歴史の奇妙な偶然により、これからもその日を人々は 決して忘れることはできないだろう。二杯目のビールを呑み干すと彼は上着を脱いだ。黄色く変色したシャツは汗にまみれ肌に貼りついており、上着を脱ぐと、くっきりと肋骨が浮かび上がる痩せた灰色の胸のあたりから、酢を薄めたような匂いが再び漂い始める。生れつき嗅覚の敏感な僕は、その匂いに嘔吐感を催してしまう。頬張った寿司を呑み込んでしまうことができないまま、しばらくは口の中でガムでも噛むように蛸を噛み続けていた。

吸盤を噛むざらりとした歯触りも、咀噛しているとやがて消えてしまい、なんの味も感触もなくなり、溶けた紙のようなそれをようやく胸の虚へと呑み下すのだった。三杯目のグラスも半ばまで呑み、ようやく落ち着いたのか、ジェロニモ叔父は傍らの僕を見て、別に懐かしさの挨拶もなく「ユーイチ、煙草、持っとるか?」と訊ねる。そして、そのまま僕の喉に残る生々しい傷跡に視線を纏わりつかせ、それが再び化膿して痛み始めると思うほどにじっと凝視する。「ユーイチは病気で喉ば手術した。もう声は出ん。

じろじろ見るとじゃなか」斜め前に座っていた母がソーメンをすする箸を止め、その無作法な視線をとがめると、叔父は、一瞬、困惑の表情を浮かべたが、やがて謎めいた、どこか冷酷な侮蔑の微笑を浮かべグラスの泡を舐めるのだった。声を失った息子。その理不尽への怒りと悲哀で母はいっぱいに満たされている。手術が終り大学病院のベッドの中で闇を見つめながら、僕はこれからの不安に押し潰され眠れぬ夜を過ごし、またつききりで看病してくれる母にしばしば樹霜をぶつけることもあったのだが、僕以上にこの事態に苦しんでいたのは、この老いた母であり父であった。退院が決まった日、僕はやはり喉頭を十数年前に摘出し、今は食道発声で喋ることができるようになった中年男性のボランティアの訪問を受けた。そのひとは黒っぽい服を着て、どこか茄子を思わせる面長の目鼻立ちの淡い、ゆったりとした顔立ちをしたひとで、たえず宗教家のような穏やかな微笑を浮かべていた。

後頭部が見えるくらいに深々と挨拶をした後に、そのひとは習慣になったらしい手話混じりで、特異な声を聞かせてくれた。「ぜ、つ、ぼ、う、する、ことは、ない、の、です」その声を聞いた時に、僕は彼の慰めとは裏腹に粘土を耳や口や目鼻に詰めこまれる息苦しい絶望を感じないではいられなかった。空気を食道内部に溜め、その空気を吐き出しながら、食道の入り口の筋肉を震わせ声に変換する、それが食道発声だが、その声は誰がなんと言おうがゲップの音そのもので、なんとも貧相な『声』だった。僕は失った声帯がどれほど優美で輝かしい発信源であったのかをあらためて思い知った。

たぶんそれは性器にも比肩できる、深い快楽を人間に与えてくれる器官なのだ。食道発声のそのひとが、ほんとうに泥沼の深みで息絶えるかのような苦悩を生きたひとであり、他人の苦悩もまた自らのそれのように感受できる優れたボランティアであるのはすぐにわかったが、そのひとが立派であればあるほど、僕は自分の内部に拡がる、どのような声さえも響かせない凍った虚の闇を感じた。このひとのように真直に希望を捨てないで生きていくことは僕にはとてもできない、そんなふうなひねくれた劣等感に包まれる。

「少しずつ、くんれん、ひまひょう」「し」がどうしても「ひ」に聞こえるその声を、僕が暗黙のうちに拒否していることを敏感に感 受したのか、最後には彼はどこか悲痛な色で目元を翳らせて病室を去っていった。母もまたなにかを感じていたのだろう、そのひとが病室を去った後、なんの遠慮もなくまじまじと黙ったままの息子を眺め、それから背中を向けベッドの端に腰を降ろして啜り泣いた。その不恰好な下方ばかりに養分が溜った洋梨を思わせる後姿は、これから沈黙のうちで生きていかなければならない僕に起こる困難のすべてを暗示しているように思え、なんともやりきれない憂欝に囚われたのだった。

シャツの胸のポケットから半ば握り潰したフィリップ・モリスをつまみ出して叔父さんに渡すと、叔父さんは萎んだ紙容器の口に、黄色い不恰好な指を強引に押しこみ、「く」の字に曲がった煙草をつまみ、そのまま真直に伸ばすこともなく口にくわえる。マッチだけはいつも持ち歩いているのだろうか。彼は「シャコンヌ」という淡い桜色の文字がグレーの地に染め抜いてあるマッチ箱を腰のポケットから取り出した。勢いよく乾いた音を響かせて火を点け、それからしばらく陶器の灰皿の上に指でつまんだマッチ棒を弄び、その炎がわずかに白い部分を残して燃え尽きるまで静かに眺めている。よく磨いた鉱物を思わせる眼に神秘的な炎の輝きが宿っていた。

それだけで母や伯父伯母たちの抱える闇が底深い不安に震えるのがわかる。ジェロニモ叔父には、まだ若い頃、放火で逮捕された前歴があった。平和公園の祈念像の裏、その青銅の大きな背中に隠れるようにして、このひとはトルエンを吸引していた。その頃、公園の整備工事のために建てられた.バラックの現場事務所がやはり同じ像の背後に建っており、叔父はその事務所に火を放った。炎は事務所の周辺の樹木に飛び火して、像の背の骨の窪みに黒い煤の跡を残した。消火作業のすべてを見守り、領火した後で、彼は消防署員に自分が火を放ったと自首した。

なぜ火を点けたのか、はっきりした理由はいまだに誰にもわからない。現場事務所の裏に洗濯機の容器であったダンボールと角材が置かれてあり、トルエンで酩酊した彼に、巨人像が背中を向けたまま「燃やしてくれろ」と哀願したのだと告白し、取り調べの警察官を困惑させた。「あのようにずっと腕を宙にさしあげとるけん、あれも疲れたのやろう」とどこまでも真面目な顔で応えるジェロニモ叔父に警官らの笑いもやがて凍った。こうして取り調べの大部分の時間を、警察は放火の動機よりも有機溶剤の吸引歴に費やすことになった。ついに動機は不明のままだったが、火を放った経緯は叔父が自ら克明に語ったそうで、それによると巨人像に唆され、まず瓶のトルエンをダンボールの上に投げ、続いて燃えるマッチの炎を投げた。

またたくまに大きくなった炎は現場事務所を包み、樹木から樹木へと火の鳥となって飛び移っていった。結局はトルエン吸引による心神喪失状態での犯行ということで不起訴処分になった。その数週問前にその公園の植栽の陰に隠れてアベックを覗き見していた彼が、怒った背の高い地元の大学の水産学部の学生に殴られた事実がわかったのは、不起訴処分になった、ずっと後のことだった。あるいはその腹いせにそのような真似をしたのかもしれない。巨人像が哀願したといった奇妙な幻覚の告白も不起訴処分を狙っての嘘ではないか、という親類もいたが、そのように悪知恵の働く狡滑なひとであるのか、ほんとうに巨人像の鳴きに唆される混乱のひとなのか僕にはまるでわからない。

ただ黙っていても周囲の人々に不安を覚えさせるなにかを隠したひとであった。市内の小学校で教頭をしていた祖母は事件後まもなく、定年までわずか一年の期間を残して辞 職せざるをえなくなったが、そのことでこの不肖の息子を叱るということもなく、溺愛とでもいうしかない寛容さで、「おまえはなんも悪うはない」と放火犯人の息子をかばうというふうでもあった。祖母は小学校の教師をしながら、女手一つで四人の子供を育てた女性である。戦争前に工業高校の教師をしていた祖父と結婚して、母たち四人の子供にも恵まれたが、原爆でその夫と、中学生で学徒動員として海軍の食糧輸送班で働いていた長男を同時に失った。

生き残ったひとびとから聞いた話では、兵器工場で機械の整備を手伝っていた祖父は大学病院でなにか機械が故障したとの知らせを受け修理に出向いてまもなく被爆、長男もまた食糧の輸送で大学病院に向かっていたという話もある。それが事実なら、時間から考えて、ふたりはちょうど最も激しい熱と炎に包まれ、遺骨も残すことなく人間が消滅した爆心の松山町近くにいたと推測される。祖母が残した被爆体験記によると、二日後になってようやく祖母はその爆心に足を踏み入れたらしいが、ふたりの痕跡はなにひとつ発見することはなかった。

忽然と消えはしたが、死んだとはどうしても考えることができなかったと祖母は語っていた。やがて歩き疲れた祖母は浦上川の支流にあたる『やなの川』と呼ばれる小さな流れのほとりに腰を降ろした。その時の感情のダムの、大規模な決壊ともいうべき経験を祖母は次のように記している。

 

 

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