プロローグ
日曜日に鍋を食べた。実家でのカキ鍋は、六人掛けの大きなダイニングテーブルの中央にデパートの包装紙が敷かれ、その上に卓上ガスコンロが置かれる。包装紙は箸使いが今一つおぼつかない石原家の人間、特に僕と親父の食べこぼし対策。「良純、カキは」と母親。「ほらっ、野菜も食え」と親父。親子三人での夕食はカキを取り合うわけもなく、和やかに時が過ぎる。
「アレッ」。
熱いカキを口の中でバフバフしながら「ウチの夕食って、こんなだったっけ」と僕は考えた。
「うるさい、静かにしろ」
「早く、来んか」
「お前等くだらん質問をするな」
「いい話をするから、よく聞け」
「飲め、さもなくばテーブルを去れ」
「おい、走りに行くぞ」
「お前のフォームは醜くて嫌だね」
「俺ほど有能なインストラクターはいない
」「親の手伝いをしない息子は勘当だ」
「大橋巨泉を殴ってやる」
「カレーが腐っている、みんな食べるな」
「皆、バカばっかり」
親父はウチでも外でも怒鳴っていた。母親は男ばっかり四人の子供と、なにより手の懸かる親父の世話に追われて、
「お父さんが起きるまで、静かにしなさい」
「起きるまで、庭に出てはいけません」
「ドアをバタンと閉めてはいけません」
「早く、寝なさい」「起きなさい」「ケンカしないの、仲良くしなさい」「おばあちゃまがいたから、私はやってこれた」
とやっぱり怒鳴っていた。五つ違いの長男は「おもちゃを僕に売ればいい」
「お前はハムサンドがいいよな」と僕を搾取する。二人の弟とは「お兄ちゃんが、おもちゃ取った」
「順番抜かした」
「いじめた」と取っ組み合いの喧嘩が絶えなかった。そんな我が家へ裕次郎叔父は、ファンファンとクラクション鳴らしてガルウイングのベンツに乗ってやって来た。
夏休みには僕等が成城を訪ねる。
「オウ、来てるのか」「いっしょに泳ごう。飛び込んでみろ」とマコおばちゃま共々、僕等を歓待してくれた。慎太郎、裕次郎兄弟の父、僕にとっては祖父・潔は、汽船会社の重役。親父が高校生のとき亡くなっているから、もちろん僕は会ったことはない。
それでも何日も料亭に居続けて「着替えを店に持ってこい」と祖母に命じたという武勇伝を漏れ聞く。祖母・光子が八十三歳で逝去したのは九年前の一九九一年。裕次郎叔父の大動脈瘤手術の際にも「裕次郎は死にませんよ」と言ってのける明治女は、信念の人だった。『親父』『お母さん』『シンタコ』『残し男』『マンガ君』『ぶりちゃん』『裕次郎叔父ちゃま』『マコおばちゃま』『ドンちゃん』『おばあちゃま』の石原家。僕の知る家族像は、日本の典型的な家族とはかなり趣を異にしているのかもしれない。
ならば、やっぱり僕が書き留めておこう。楽しい記憶が薄れぬうちに。折から都知事選挙、叔父の十三回忌法要、祖父の五十回忌法要と石原家の重大行事が続いたこの一年、僕は作業に着手した。コトコト、コトコト。鍋が煮つまって、だしが濃くなるように、話の内容も密度を増していく。やっぱり石原家の食事は楽ではない。他人が見れば喧嘩しているのかと思うくらい、早口で声高の言葉のやりとり。
最近は行き着く先が決まっている。親父が一段と大きな声で僕に問う。
「小説書いているか」
「結婚しないのか」そこで僕はグエッとカキを喉に詰まらせた。だが、「なんだその服はセンス悪いな」、そんな次の一言には黙っていない。独断で極めつける言葉は、四十にもなる男に面と向かって言うセリフか。
趣味が違う、好みが違う、だいいち親父とは時代が違う。ムッとした僕は言葉を手繰って親父と真っ向渡り合う。
これぞ石原家の食卓。賑やかに揉めなくては消化に悪い。
崖の上の家----父・石原慎太郎の作法
『だんご』と都知事選一九九九年四月十一日夜半の新宿は春の嵐。。フレハブの仮設事務所の中では、大きな雨粒が低い衝突音を立ててトタン屋根を叩きつけるのにも、飛沫が青梅街道の路面を真っ白く煙らせるのにも、誰も気付かない。うなぎの寝床状に細長いフロアの一番奥に鎮座する必勝ダルマの前に都知事当選の記者会見場は用意された。
畳一畳ほどの演壇を取り囲むように二十台余りのテレビカメラと、百台以上のスチールカメラの砲列が並ぶ。少しでも良いアングルを手に入れようと皆がわずかな空間めがけて身をよじる。最前列の記者は胡座をかいて床に座り込み、脚立に載ったカメラマンは頭を押さえ付ける低い天井を片方の手で押し返す。「押すな」「立つな」と怒号飛び交うなか会見は始まった。
それは作家であり、ヨットの名スキッパー(艇長)であり、話の面白い先達であり、テニスの好敵手であり、コルフ仲間であり、飲み友達であり、そして僕の親父である石原慎太郎の政治家として現役復帰の瞬間である。*数分刻みのタイムスケジュールで、各テレビ局の生中継が入る。
トップのNHKのインタビュアーは、顔見知りの森本アナウンサー。片手にマイク、片手で耳のイアホーンを押さえて、中継車からの合図を待つ姿に緊張が見てとれる。細かく動く目線を捕まえて、こちらから微笑みかけても表情は硬く動かない。短く辛辣な言葉でバッサリとレポーターを斬り捨てることに喜びを感じ、ますますその切れ味に磨きをかけた親父との対決を目前に、全神経を集中しているに違いない。テレビ番組が、日本語をどんどん破壊していくことに憤りを感じている親父が、ワイドショーのレポーターと決定的に対立するようになったのは、叔父・裕次郎が亡くなったときの一連の報道だ。
「今のお気持ちを」「悲しいですか」と神妙な顔で同じ質問を繰り返す女性レポーターに、遂に親父はキレた。「カメラを止めろ。お前等くだらん質問をするな。人にものを尋ねるなら、勉強してから来い」。まさか取材に来て怒鳴られようとは思ってもみなかったレポーター陣は、目をマン丸くして驚いた。つまらん質問をする方もする方だが、マスコミに携わる人間ならば、怒鳴る方も怒鳴る方だ。それにしても人を怒鳴ったり、大声出したりするのは健康に良いらしい。肩も凝らなければ、ストレス発散にもなる。
僕は親父がレポーターを怒鳴りつけるのを、人に甚だ迷惑な親父一流の健康法とみている。いよいよ生中継が始まった。ADが合図を送り、一呼吸おいて森本アナウンサーが「おめでとうございます」と挨拶するや否や、いきなり親父が切り返す。
「君は、横田に行ったことあるかね」。一瞬、言葉に詰まりそうになりながら、「はい…、あります」「それならよろしい」。聞き手が語り合うべき話の内容を、把握していることを確認してからインタビューに応じる。ここで親父と三十七年の付き合いの僕から、森本さんに一つアドバイスするならば、せっかくYESと答えたならば、あとに一言、何か自分の言葉を付け加えるのがいい。それが言葉を重んじ、言葉に生きる作家石原慎太郎の信頼をかちえるコツだ。
それにしても、あんなに不機嫌そうな顔して、出会い頭に意地悪言ってから会見する当選者は他に見たことがない。テレビで見慣れた当選御礼の光景は、笑顔の候補者と夫人が連れだって登場となる。しかし、今回ばかりは息子四人も揃ってカメラ前に並ぶことになった。自身も政治家である兄貴はともかく、全員で登場となったのは、大ヒット曲『だんご3兄弟』の影響に違いない。どこか懐かしさを覚えるタンゴのリズムに乗って歌うこの曲のおかげで、兄弟は一列に並ぶのが、この春はトレンドだ。
事務所の人の言うことには、ダルマの目を入れる時に兄弟四人でダルマを持ち上げる、親子の協力、家族愛が今回のテーマだそうだ。だったらもっと大きな演壇を用意しておいて貰いたかった。カメラの前に出てみたら、台に載れたのは、親父、母、兄貴の三人だけ。一段低い後列の残りの三人は、前が何も見えやしない。ということは、前からも見えやしない。
僕は俳優だから、ギャラが出ないテレビには映らなくても構わない。だけど三男の弟は、バンコクから休暇を取って応援に帰国していた手前、銀行の同僚に自分の勇姿を見せるべく衛星放送に映ろうと必死で跳ねている。よほど前列の三人を押してやろうかとも思ったが、大人気ないから止めた。いよいよダルマに目を入れる。進行役に促され両手で担いでみると、こいつが思った以上に、バカでかい。
ダルマさんの赤い衣で目の前、真っ赤。結局、目入れのスチール写真には、僕の姿は一枚も写っていなかった。「台がぐらつくから足で押さえろ」と後ろを振り返り兄貴が瞬く。
「また長男にやられたよ」と思いながら、約二時間の会見中、僕は気を抜かずに台の端をふんづけていた。
♪ある日兄弟げんか♪でも、すぐに仲なおり
♪チャンチャン。この選挙、僕にとっては『だんご』で始まり『だんご』で終わったようなものだ。
家族が『だんご3兄弟』の話題で盛り上がったのは、ちょうど、出馬会見の直前の週末だった。その晩は母親から、親父と一緒に皆で家で食事しないかと電話があった。「石原は出る」「出ない」と巷が大いに騒がしい時期、これはいよいよ重大発表かと、勇んで実家へ出かけて行った。
ところが行ってみると、兄貴家族は子供が熱を出したとかでドタキャン。三男は海外勤務。結局、両親と僕と画家の四男、四人の晩餐となった。そこで出たのが、CDが発売されたばかりの『だんご』の話。
♪弟想いの長男。兄さん想いの三男。
自分がいちばん次男♪「♪自分がいちばん次男♪とは、石原家には当てはまらない」と次男の僕が文句をいえば、「最近の団子は三つ。四つ目は串にも刺してもらえない」と四男が憤慨する。それを笑って見ている”本当は自分がいちばん長男”の親父。
どこにでもありそうなたわいもない会話。今にして想えばこの一家団欒は嵐の前の静けさといったところか。選挙告示直前の二月ば、よくゴルフに行った。知事選に想いを巡らしての気晴しか、何も考えてないけれど、ただゴルフしたがっただけなのかは知らないが、四週続けて親父とプレーするはめになった。
元来、友達が多いとは思えない親父にとって、人数合わせにも、二人だけでプレーするにも、僕は気楽に誘えるゴルフ仲間に違いない。四週間前、午前のラウンドを終えクラブハウスで昼食を取っていると、中曾根元総理が食堂に入ってくる。親父の顔を認めるとテーブルに笑顔で近づいて、親父と親しげに会話を交す。漏れ聞こえる言葉には、「君の著作『法華経を生きる』を読んだよ。あれは私の哲学と一緒だね」と、元総理は笑っておられた。
柔らかな日差しの中で、ようやく緑に色づき始めた草木を眺め、互いの人生哲学を和やかに語り合う。のどかな休日の昼下がりのスケッチだ。三週間前、ゴルフの後、夕食を終え、親父を送り届けて自宅に戻る。何の気なしに点けたテレビ画面に、禿げ頭の政治評論家の得意顔が大写しになった。話題は都知事選。
「石原は絶対出る」と力説している。こっちは、その当の本人と一緒に食事をしてきたばかり。本人の口からは選挙のセの字も出やしなかったではないか。「何を戯けたことを」と最初ば冷めた視線で僕は画面を見つめていたが、五分、十分、十五分と、出馬は既成事実のごとく説き続ける評論家の自信満々な語り口に、僕の気持ちは揺らぎ始める。最後には、「やっぱり選挙に出るんだ」とすっかり一般視聴者へ同化してしまった。
なるほどテレビの力は恐ろしい。一週間前、昼食のクラブハウスで、再び中曾根氏にお目にかかると、前回とはうって変わった氏の厳しい顔色。親父を手招きし、自分のテーブルに席を勧めると顔を近づけジッと親父の話に聞き入っていた。この時、老練な政治家の勘は、親父の心緒を読み取っていたのかもしれない。
僕は元総理の表情に初めて、身近に都知事選を感じた。あの出馬表明直前の『だんご』の晩、何も話はなかったが、親父の出馬の意思は九割方、固まっていたのだろう。ただ残りの一割が問題なのだ。ゴルフの当日朝のキャンセルが当り前のように、ことが都知事選挙でも親父に関しては、現実に事が起こってみるまでは何が起こるか分からない。
本人が意思を決めて、本人が行動を起こすまで、周りの人間はただ成り行きを見守るしかすべはない。家族は好むと好まざるとに拘わらず、その言動に巻込まれる。ならば何が起ころうとも驚かない覚悟だけは決めておくのが、長年培われた家族の知恵。親父の言動に驚かされるのは今に始まったことではないのだから。
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