注さんへ
二〇〇〇(平成十二)年二月九日、私たちの仲間だった荒井注が本当はもう、荒井さん、と呼ばなければいけないのだろう逝ってしまった。
静岡県伊東市の自宅の、ご自慢だった温泉付き浴室から、美しい伊豆の海を眺めながらの死だから、大往生だったとおもいたい。
彼とは二、三カ月前にCMの撮影で再会したばかりだった。
このCMは、ドリフターズの全メンバーが久しぶりに勢揃いしたことで話題になったが、しかし、もう六人が揃うことはないわけだ。
仮通夜、通夜、告別式と三日間あった中、荒井以外のメンバー全員が揃ったのは仮通夜の日だった。
翌日の通夜は私が仕事で出られず、告別式は加藤と志村が来られなかった。
私は告別式での弔辞を頼まれた。
頼まれたのが告別式当日の朝ということもあり、引き受けてはみたものの、言うべきことなど、何も考えることができなかった。
だが、からっぽの頭のままで、いざ祭壇の前に立ち、荒井の写真を見あげると自然に言葉が出てきた。
「出発間際の忙しい時にと、あんたは大変怒るかもしれないけど、ちょっとお話しましようや。暮れに会ったけど、あれ、いい仕事だったよね。あんたも現場に来た時より帰る時の方が元気だった。みんなも喜んでた。いい仕事だった。覚えてるかな?あの時、あんたがさ、『今度は医者の言うことをよく聞いて、飲んでもいいってお墨付きを早く貰ってくるから、一緒に飲もう』って言ったこと。
結果的にあれが最後の言葉になつちゃったね」喋りながら、いろんな出来事が蘇ってくる。
最初に荒井と会ったのは、ドリフターズのメンバーがごっそり抜けて四苦八苦している最中だった。
コミック・バンドを志向していた私は、トリスのおじさんみたいな面白い顔のピアニストがいるときいて、すぐに会いにいった。
それが彼だった……。
もう何十年も前の話だ。
「あんたもよっぽどエライというか変な人というか─カラッケツでドリフを始めて、飛行機で言えば、離陸する大変な時にいてくれて、それから何とか先が見えてきて、さあこれから楽になるぞ、お金も儲かるぞという時に辞めちゃった。
あの時は、あんたの人生哲学が理解できなかった。
『極力みんなに迷惑かけないようにする』って、辞めると言ってからも半年は続けてくれた。あの半年のあんたは凄かったァ。鬼気迫るというか、本当に面白かった。あんまり面白かったから、気が変わって『残る』と言うかなともおもったけど、あんた、とうとう言わなかったねえ。
スパッと辞めちゃった。もう、あんたは行くんだよな。止めても無駄とは分かってはいるけど、こっちはあの時と同じ立場にいる気がするよ」あ、こりやマズイなとおもった。
「行くな、とは言わないから。途中、気をつけてな。飲もうぜ、絶対にな。飲まなきゃダメだ。おい、飲むんだぞ。長話すると嫌われるから、この辺でな。飲む場所は、あんたが決めといてくれ。じゃあ、いずれ」やはり最後は声が詰まってしまった。
荒井の死の翌月、今度はジミー時田が亡くなった。
二人ともいい意味で奇人だったが、ともに私の人生に欠かせない人間だった。
二十代は時田、三十代は荒井が伴走してくれた。
その二人はもういない。
なんて年だ。
立川談志さんが時田の葬儀の委員長を務めていた。外はいい天気だった。
出棺を待つ間、ぼんやり空を眺めていると、「そろそろ、俺も人生のまとめをする時期だよな……」という気になった。
それが、この自伝の話を引き受けた理由のひとつだ。こ
れから、いろいろ記憶を辿っていこうとおもう。そうすれば、また荒井や時田にも会えるだろう。
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