六人の超音波科学者
 
  六人の科学者が集う土井超音波研究所。そこに通じる唯一の橋が爆破され、山中深くに築かれた研究所は陸の孤島となった。仮面の博士が主催する、所内でのパーティの最中に死体が発見される。招待されていた瀬在丸紅子たちは真相の究明に乗り出すが…。森ミステリィの怜悧な論理が冴えるVシリーズ第七弾。
 
著者
森博嗣
出版社
講談社NOVELS / 講談社
定価
本体価格 820円+税
第一刷発行
2001/9/5
ご注文
ISBN4−06−182204−7

プロローグ

ずっと上り坂だった。
限りなく上っている。
もしかしたら天国へ向かっている、あるいは既に天国なのではないか、と疑いたくなるほどだ。

少なくとも銀河系へ向かっている、よりは多少は現実的だろう。
ビートルの非力な空冷エンジンは、ギア・ダウンのたびに力タカタと乾いた捻りを上げ、車体はヘアピン・力ーブで左右へ律儀に傾いた。その水平加速度に合わせて、後ろの座席から高い声が上がる。
反応は少しずつエスカレートしているようだ。

この車はエンジンも後ろにある。
したがって、音はすべて後方から聞こえてくる。
音から逃げるように走っている状態。
そのくらい、前の座席は対照的に静かだっ たし、霧に霞んだ行く手にも、音が存在しそうな気配はまったくなかった。

「きゃあ!」
「おっとと」
「あ、ああ!君な……」

香具山紫子の声である。
「今のは、あかん。勘弁できんな」
「ごめんごめん」

小鳥遊練無の声はかなり高い。
「急に曲がったからさ。でも今、凄い悲鳴だったね、しこさん」
「わざとやろ、今のは……」

「え、わざとなの?」
「ちやう。君が、わざとやろ、言うてんの」
こちらは努めて低音で話す紫子。

「な、わざとやろ?白状しいな。ここ、触ったやん」
「ここって、どこ?」
「くぅ!白々しいやっちゃな!」

「ちょっと、わざとって何がさ。どこ触った?」
「いやらしい!」
「あーああもう……、触りたいと思う?僕が?しこさんを?ほうええ……」

「なんちゅう言い草やん、それ。どさくさに紛れて:…」
「あ、痛てて!」
今度は練無が叫ぶ。

「おっとと」
「ちょっとう!」
「あ、ごめんな……、堪忍堪忍、はは」

「何、今の!完壁にヘディングじゃん」
「ちゃうちゃう。ズ・ツ・キ。ディやないで、ゼットやで」
「同じじゃん」

「ちゃんと掴まってなあかんなあ、ごめんあそぱせ。お互いに気をつけましょうね」笑いながら紫子が言う。
「もおう、しこさん、子供なんだから……、やるかな、そういう仕返しって」

「そりゃま、車もな、右にばっかり曲がってられへんしな。右回転だけやったら、ループぐるぐるの螺旋階段、で右ネジの法則やもん、左手のフレミングはんって、どうよ?君、理系やさかい、お手のもんやろ。あ、これがホンマのお手のもんやで」
「しこさん」

「あれは、私も完壁お手上げやったわ、熱伝導率との違いが今イチ私の感覚にフィットしやへんわけ」
「しこさん……、男だったら殴られてるよ」

「おおそうか、そういう君かて、女やったら、ただじゃおかんで。そんなも、今頃、どんだけいびりたおされてると思う?毎晩泣きべそかいてな、すすり泣くぞ」
「それ、主語は誰?」
「自分や自分」

「自分っていうのは、僕のこと?」
「何とぼけてんねんな」
「もうさミしこさん、口が意志から独立してない?ちゃんとしこさんの人格でしゃべってる?口だけ独自のポリシィ持ってるみたい」

「ポリシィ?ようわからんけど、これは自動操縦なんよ。ほなら、君の人格はどこにあるん?ようそんなちらちらのエッチな服を着よるで、ホンマに。誰に襲われたいんや?」
「どこがエッチなのお!」
「君の存在自体がエッチ!」

「どういう意味、それ」
「願望がエッチ!」
「煩いな!」

紅子が助手席から振り向いた。
「喧嘩したかったらね、もっと陰湿にやりなさいよ。そんな開けっぴろげで公明正大な喧嘩は鬱陶しいだけ。もっと執拗に計画的に徹底的に、相手に肉体的かつ精神的ダメージを的確に与えることだけに集中する。その場では笑って相手を油断させておいて、夜になったらこっそり行動開始。一撃必中、即離脱。わかった?」
「えっと……、あの…」

紫子が身を乗り出してきいた。
「紅子さん、何の話?」
「夢でも見てたの?」練無も尋ねる。

「たった今起きました。後ろが煩いもんだから」紅子はシートにもたれて溜息をつく。
「ああもう、気持ち良かったのに……」
「ごめんなさい」練無が小声で言う。

「すみません」紫子も謝った。
「なんか、霧が出てきたね」運転席の保呂草が咳く。
「まだ、だいぶかかりそう?」紫子がきいた。
「どうかな、もうかなり上ったと思うけれど」

「これって雲の中なんよね」紫子が窓の外を見て言った。
霧のため、視界は前方二十メートルほどに限られていた。この程度であれば、山道ではさほど珍しくないかもしれない。
時刻はまもなく午後四時。暗くはなかったが、保呂草はビートルのヘッドライトを点灯させていた。

 

 

 

・・・・続きは書店で・・・・