■仕事のやりとりのほとんどが電子メールで済むようになって、電詔で原稿の依頼を受けるのが苦痛になってきた。
たまにそういう電話があると、つい「なんて図々しいんだろう、この人は」などと思ってしまい、ほぼ100パーセントお断りする。
そのこと自体はあまり良いことではない。
素早いレスポンスが必要なときは電話でなければ困るし、人によっては声を聞けて嬉しいということも確かにある。
だがそれでも用件が仕事の場合、その人の肉声を実際に聞くのがうっとうしく感じてしまうようになった。
eメールには肉体も体臭も衣服も声も筆跡もない。
そこにあるのはミもフタもないただの記号の羅列だ。
情緒がゼロだから、仕事の上の「用件」のやりとりにおいては圧倒的に効率的だ。
その感覚に慣れると、電話での依頼が、うっとうしく思えたり、電話をかけてくる人が図々しく思えたりするのだろう。
25年前に作家としてデビューしてからしばらくの間、原稿というのは出版社の編集者が取りに来るものだった。
週刊誌の連載であれば、毎週決まった曜日に担当の人が自宅に来る。
海外旅行に行くときなどは、あらかじめその分を書き終えてから出発した。
ファックスが入ったのは、確か『愛と幻想のファシズム』を書いたころだった。
海外からでも原稿を送れるようになったのが嬉しかった。
だだし、我が家のファックスマシンも今はほとんど稼働していない。
小説を全編キーボードで書いたのは読売新聞に連載した『インザ・ミソスープ』が初めてだった。
その前の『ライン』のときは前半が手書きで、後半がキーボードだった。
読み手には、『ライン』を読んでもどこまでが手書きで、どこからがキーボードで書いたかはたぶんわからないと思う。
しかし、書き手のほうには違いがある。
脳が沸騰しているような状態で、イメージが押し寄せているときなどは、文字変換が介在すると、チャネリングが醒めてしまうようなところがある。
ひょっとしたら初期の作品は、キーボードには向いていなかったかも知れない。
■わたしはもうすぐ50歳になる。言葉の組み合わせのスピード、メタファーの選び方なども20代のころとはずいぶんと違ってきた。『限りなく透明に近いブルー』や『コインロッカー・ベイビーズ』を書いたころ、つまり20代では、言葉とその組み合わせが、脳のハードディスクから瞬時にして浮かび上がってきた。
20歳を境にして、脳細胞は増えることを止めるそうだ。
歳をとるにつれて脳細胞は日々死滅していくわけだ。
その数は1日平均で約4万から5万個、ワインをグラスー杯飲むたびにその数が倍になるという専門家もいるから、わたしなどこれまでに死んだ脳細胞の数は天文学的なものだろう。
つまり歳をとるにしたがって、脳のハードディスクに溜まるファイルの量は飛躍的に増えていくが、処理のスピードが鈍ってくるのだ。
人間の脳はコンピュータと違って、新機種にファイルを移植したり、メモリを新しくしたり、増設したりできない。
将来的に脳の人体間移植が可能になれば別だが、当分無理だ。
だから、20代のメモリが充実していたころのわたしの脳は、おそらく文字変換を嫌がっただろう。
憑かれたように、洪水のようなイメージを駆使していたころは、手書きのほうがよかったわけだ。
そういったことを除外すれば、パソコンは小説家という職業にとって便利な道具だ。
40枚ほどの手書きの原稿をファックスで送るのは、時間的に、また海外からの送信の場合には経済的にも、大変な作業になる。
ところが『希望の国のエクソダス』や『最後の家族』のような400字詰め原稿用紙で500枚を超えるような長編小説でも、Word添付ファイルで300〜400kb、text添付ファイルだと100kb以下で、メールではほんの数秒で送れてしまう。
■レイナルド'アレナスという亡命キューバ人の作家がいた。
残念なことに1990年エイズで亡くなったが、亡命前、彼は同性愛者であるという理由でキューバ革命政府当局から目をつけられていた。
それでも恋人の男性の家を転々とし、かくまってもらいながら小説を書いた。
書いた原稿はコーヒー豆用のずだ袋に入れて持ち歩き、少しずつ外国人に託してフランスなどの工一ジェントの元に運んでもらっていたのだ。
アレナスのように、昔の反体制作家は出版のために多人なコストを払わなければならなかった。
だがメールがあれば状況は変わる。
インターネットやメールは発信する側にとって圧倒的に低コストだということだ。
通信回線をすべて押さえない限り、国家権力が弾圧するのは不可能に近い。
紛争中のコソボからも情報は世界に向けて発信されていた。
インターネットが民主的なメディアだというのはそういうニュアンスも含まれている。
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