成長と変貌を重ねる
小説家
わたしはこれまでけっこう長い間、村上春樹の作品につきあってきているが、読めば読むほどこの小説家は底が深いという感じが強くなってきている。
たしかにさまざまな批評家が指摘する弱点を垣間見せることがないわけではないが、彼は、そのような危機をまったく人が考えも及ばない形で克服してきた。
というか、それを自分で矯正し、自分の成長の糧としてきた。
これだけ成長を続けて変貌してきた小説家も珍しいし、これだけ自分のスタイルを堅固にもち、それを崩さないできた小説家も珍しい。
彼はたぶん、いま日本で一番間口の広い小説家だろう。
間口が広いというところには、読者の層が多岐にわたっているという意昧、発表の場所におけるオプションの幅が広いという意味、仕事の幅がとてつもなく広いという意味、そして文体がいまも広角打法的なひろがりを失っていないという意昧などが、含まれている。
けれども、そういう小説家が同時に、これまで日本に例がないほど、強固にメディアに顔を出したがらない、人となりとしては極度に露出度の少ない、ヴェールに包まれた小説家でもある。
そしてまた前例を見つけるのが難しいほど、日本で小説家となりながら、外国に居を移しての執筆生活期間の長い、しかも夫妻で多彩な外国滞在の経験を続ける、外国避難型の小説家でもある。
小説家として登場してから22年、堅固な意志を持続することでいつの間にか彼の行路の後にできた一と見るべきだろう一この特異な作家像のうちに、彼の秘密、魅力、特徴、人間性、文学者としての力は、顔を見せているのだろうと思う。何しろ、小説を書く前に、自分たちで働いてお金をため、奥さんとはじめたジャズ喫茶のマスターになったという小説家である。
店の名前は飼っていた猫からとった。
おだやかな風貌をしているが、小説を書こうというような人たちの中では、最初から、筋金入りの少数派なのである。
その仕事の幅ということでいうと、小説(これには長編小説と短編小説とあるが、村上はこの双方で力を発揮している、掌編小説みたいなものもある)、ノンフィクション(オウム関係の仕事が大きい)、紀行(外国生活が長い、当然これもたくさんある)、ルポルタージュ(名作『日出る国の工場』、ほかにシドニー・オリンピックの仕事など)、エッセイ(「村上朝日堂」ものなど)、批評(未公刊だが初期に文芸誌やリトル・マガジンに発表したものは犀利なテイストに富んでいる、非凡なものあり)、ジャズ評(『ポートレイト・イン・ジャズ』)などがあるほか、むろん翻訳も、これはレイモンド・力iヴァーからティム・オブライエンまで、優に独立した翻訳家といえるくらいの本格的なキャリアをもっている。
そのうえ、童話絵本翻訳(C・V・オールズバーグの絵木、他に『空飛び猫』など)、創作絵本(佐々木マキとの共作『羊男のクリスマス』)、インターネットでの村上朝日堂ホームページでの読者のやりとり(『そうだ、村上さんに聞いてみよう』)など、ほんとうによくもまあ、というほどの仕事を、目立たない形で、この寡黙な作家はやってのけている。
でも、一方で彼が小説家として文芸雑誌にどんな登場の仕方をしているかといえば、むろん文芸雑誌のほうは彼の作品でもエッセイでも何だって掲載したがっているのだが、ほとんど小説作品以外の登場はない。
文芸雑誌恒例の正月の巻頭対談といったものは、当分の間、考えられない。
いわゆる文壇的なつきあいという観点からいえば、彼は彼以前の誰とも─―三島由紀夫とも安部公房とも大江健三郎とも中上健次とも村上龍とも違っている。
似たタイプの小説家を外国に探せば、もう数十年も公的な場所に姿を現していないアメリカの小説家J・D.サリンジャー、かろうじて似たスタイルの小説家を国内に探せば、やはり露出度の少なさを意図した庄司薫などが思い浮かぶが、そこにはたぶん小説家というより小説家である前の一個人としての強固な意志が、働いているのである。
わたしが聞いた話に、こういうのがある。
村上はけっして締め切りのある仕事をしない。
自分で書いたら、それをもってくる。
きっと雑誌に連載しているエッセイなどではそんなことはないのだろうけれど、主要な仕事に関して言うなら、これはよほど生き方の次元からしてジャーナリズムと離れているのでなければ、とうてい、できないことである。
本当なら、その全貌をほどよく紹介し、「テーマ・パークの入場券についてくる案内図のようなもの」を(という意味のことがこの文章を引き受けた際の執筆要領には記載されている)提示できるとよいのだが、もしそういうことが可能だとしても、それはきわめて難しいことである。
ということが、ここまでの説明で、ある程度、わかっていただけたことと思う。
少なくとも、わたしには無理である。
わたしは、いまここにあげた村上の仕事の多彩ぶりを、隅から隅まで読み尽くして知っているという性質の愛読者ではない。
また彼の小説の愛読者ではあるけれども、彼の仕事の全貌を押さえているというタイプの研究者でもない。
少しは他の人よりいけるかと思われるのは、彼の仕事の中心を占めるはずの小説、そのうち長編小説の面白さ、短編小説の面白さ、あと、散文の上等さといったものについて、少しは普通の人より、時間をかけて考えたことがあるため、よく知っているということくらいである。
でも、最良の条件を備えた紹介者が最良の紹介者であるというほど、彼が簡単な小説家ではないということも、先の説明からわかってもらえたことだろう。
わたしの限界を知っていただいたところで、先を続ける。
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