古川
 
  第8回 日本ホラー小説大賞短編賞 ノスタルジックな「癒し系」ホラー小説の登場 一九六〇年代の初頭、下町を流れる「古川」のほとりで繰り広げられる、恐ろしくも哀切な妖かしの物語。  
著者
吉永達彦
出版社
角川書店
定価
本体価格 1200円+税
第一刷発行
2001/06/25
ISBN4−04−873310−9

1

真理が小学校から帰宅すると、弟の真司は、足踏みミシンのテーブルに腰をおろして、裏窓から外を見ていた。
窓枠に父が縦木を打ち付けたのは一年前。
真司がおもちゃ箱を踏み台にしてミシンの上にあがるようになってからだ。

きょうも真司は、その桟を小さな手でにぎりしめ、家の裏を流れる古川を見ていた。
「真司、またそこに登ってんの。
おもちゃ、かたづけんと、おかあちゃんに怒られるよ」真理は、真司の背中にそう言った。

うれしそうにふりかえった真司は、ぐうっと喉の奥から音を発した。その音声が言葉にならなくても、姉の真理にはその意味がわかる。
(おかえり)
と真司は言ったのだ。

いつもそうだ。
二歳と五ヵ月になる真司ではあったが、まだふつうの二歳児のようにはしゃべれない─というよりも、言語が異なるのだ。
たとえば、真司の発する「ア」という母音にも長短種々あって、それぞれが別の意味の単語になっている。

独自に簡略化された、そんな「真司語」がわかるのは真理だけだったから、訳して両親に教えてあげるのが真理の務めとなっていた。
「ただいまお姉ちゃんが帰りましたよ」真司の頭をなでると天然パーマの細い髪がくしゃくしゃになった。
真司は小さな手を打ちならした。

真司にならって、真理も窓外の風景に目をやった。
古川の川岸はコルセットのようにコンクリートで固められ、女性の背丈ほどの金網が川沿いにつづいている。
川岸に立ちならぶ長屋の裏口や、路地から、そこにでられた。

どの家も金網近くまで、物干し台や、使わなくなった生活用品が所せましと置いてあった。
川の向こうがわは隣市だ。
家の前の道を挟んで同じ長屋が一区画あったが、古川の対岸には長屋はなく、一戸建の新興住宅街になっていた。

よどみなく流れる古川は、くねりながら市の境界線を形成していた。
真理は古川がどこからきて、どこへいくのか知らなかった。
下って市街地にはいり込むようになると、もう古川ではないような気がしたからだ。

真理は対岸の校庭ほどの田圃が好きだった。田圃の水ぎわにはコンクリート岸はなく、葦が追いつめられたように残っていた。
その見通しのいい風景は、季節の移り変わりを報せてくれた。
田圃は今、緑の稲を初夏の風になびかせている。

その先のいちだん高くなったところにT女子大学があり、ルンが塀沿いの黄色い道をゆく人が茄子色の影を落として小さく見えている。
女子大の建物の上には、白い入道雲がもくもくと青い空を押し上げていた。
「綿菓子みたいな雲やな」真理の言葉に真司は大きくうなずいた。

「あんた、綿菓子って知ってるんか?」
「ユ……」
「知ってるの。……そうやったな、去年の天神祭りの時、おとうちゃんに買おてもうたなあ。真司はようおぼえてるな、えらいわ」ほめられて真司は目を細めた。
真理はランドセルをおくと、ラジオを点けた。
音量をすこし絞った。

 

 

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