姥ざかり 華の旅笠
 
  足も軽かれ、天気もよかれ お伊勢詣りにいきまっしょか 時は天保、高倉健さんもご先祖が踏破した5か月3200キロ 五十路女のはればれお買物遊山紀行  
著者
田辺聖子
出版社
集英社
定価
本体価格 1800円+税
第一刷発行
2001/06/10
ISBN4−08−774530−9

足も軽かれ天気もよかれ

それは、こんな会話からはじまったであろうか。
〈宅子さん、お伊勢詣りに行きまっしょうや、拍子もない話のごとありますが、ほんなこて、旅は足腰たつうち。気の合う同士の旅や、よござすばい。来春あたりに……〉
そういうのは、五十歳の主婦、桑原久子。

つやつやした頬に、口もとにこぼれる笑み、小太りでおちついた物腰、富裕な商家のお内儀さんの、威厳と貫禄があるが、同時に、表情にはのびやかな、やわらかい色があって、普通のお内儀さんにはみえない。
〈え、どこ行かっしゃると?〉

と耳を疑うのは小田宅子。
こちらは五十二歳、同じように商家の主婦だが、首すじすっきりと色白の、若いときから小町娘といわれて村の盆踊り歌にまで歌われたという、つややかな風情は失せていない。
麗人は目尻の皺まで趣きありげにみえる。

〈お伊勢詣りですたい。貴方は前にも一度、東の旅へ行かっしゃつたが、あたいはまだこの年ではじめてで、ほかにも一人二人、「ウチも加てて」ち、いいなさる女がおらっしゃります〉
〈昔の旅はもう遠々しい二十年も前のこと、まあ、女ばっかりの旅、そりゃよござすなし。あたいも加ててやんなつせ〉

〈ああたがござるなあ、たいそう楽しゅうござっしょう〉ふたりは微笑しあう。
それは天保十一年(一八四〇)のことだったろうか。
久子さんは寡婦だからいいが、宅子さんの方は夫がいる。

乞えばもちろん許すであろう寛容でやさしい夫であるけれど、まずは早いこと、夫の耳に入れなければ。
宅子さんはたちまち心うきうきと弾んでしまう。
北九州は筑前、上底井野村(現・福岡県中間市)は、九州の幹線道路というべき長崎街道に合流する〈中筋往還〉にある。

長崎街道は九州大名の参観交代の道でもあり、オランダ商館長も長崎奉行も通った。
伊能忠敬が、大田南畝が往還した。
中筋往還の中間の要所である上底井野には
代官所もあれば郡屋(郡役人の詰所)もあった。

またここには藩主黒田侯の別宅〈御茶屋〉もあった(長い歴史のうちには途中、廃されたり再建されたりという消長はあったが)。
あたりの山容が美しく鷹狩に好ましい遊猟の地だった。大体が農村ではあるものの、上底井野村の道筋には商家が立ちならび、戸畑・若松・黒崎からの往来、交易が賑わしい。
その一角に、豪商〈小松屋〉(両替商)がある。

宅子さんはそこの家付き娘である。
宅子さんも人集している筑前歌人たちの歌集、『岡縣集』にある作者署歴によれば、「家ノ生業バ商、頗ル福有リ」(原典漢文)と。
そうでなければとてものことに、伊勢参宮の旅(しかも宅子さんらは善光寺・日光まで足をのばしている)は実現できないだろう。

宅子さんはこの旅を『東路日記』という紀行文学に完成させ、久子さんは『二荒詣日記』としてまとめた。
同行の女性二人が二人とも旅日記をものし、しかもそれが現存しているというのは稀有なことだが、そのどちらも品よく、挿入された歌も閑雅でおっとりしている。
歌はやや宅子さんに才気があるかと思えるが、しかし実力は相伯仲する、というところだろう。

二人は当時、筑前地方の歌壇をリードした、国学者であり、歌人の、伊藤常足の門人なのである。境遇もやや似ている。宅子さんは養嗣子の夫清七を支えて家業にいそしみ、「家益富ム」とある。
内助の功があったのであろう。

宅子さんが十八歳のとき弟清七郎が生れたので、弟の成人後、家を譲り、すぐ横に新家を建ててそこへ引っ越し、醤油醸造業を始めたという。
こちらの屋号も〈小松屋〉だった(これが墓誌にいう「二家ヲ為ス」であろうか)。姉弟仲もよく共に家業に精を出したらしい。神社仏閣への寄進も、必ず義兄の「清七義且」と「清七郎義広」の名が並べて刻まれている、と『小田家一族の系譜』にはある。

片や、久子さんはこれも芦屋の豪富〈米伝〉(質・両替商)の女あるじだった。
悠々たる遠賀川は南から北へ流れて響灘に注ぐが、芦屋はその河口の町である。
芦屋千軒と調われ、遠賀川を挟んだ東の山鹿とともに、股賑をきわめた商業の町だった。

舟運の便を利して物資も情報も集散し、財は文化を運ぶ。
商人たちの間に学芸の素養が蓄積してゆくのは当然だろう。久子さんが夫に死別したのは四十の年で、跡取りの栄次郎は十歳にもみたぬ幼さだった。
久子さんは老いた舅を頼りにしつつ、家業にいそしみ、子育てをする。

 

 

 

 

 

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