プリズンホテル 4 春
 
  義母の富江は心の底から喜んだ。孝之介が文壇景高の権威「日本文芸大賞」の候補になったというのだ。これでもう思い残すことはない……。忽然と姿を消した富江。その行方を気に病みながらも、孝之介たちは選考結果を待つべく「プリズンホテル」へ。果たして結果はいかに?懲役五十二年の老博徒や演劇母娘など、珍客揃いの温泉宿で、またしても巻き起こる大騒動。笑って泣ける感動の大団円。  
著者
浅田次郎
出版社
集英社文庫/集英社
定価
本体価格 686円+税
第一刷発行
2001/11/25
ご注文
ISBN4−08-747378−3

1

「うんと長生きして、文化勲章を貰うまでは、決して死にはしない」
─―偏屈な小説家は言った。
水面に張り出した満開の下枝のもとに、ぼくはボートを止めた。

擢を舟べりに上げて寝転ぶ。
じっとそうして散りかかる花にまみれていると、まるで幸福なゆりかごに揺られているような気分になる。
いつに変わらぬ春であるのに、今年のそれが見知らぬ五つ目の季節のように感じられるのはなぜだろう。

つまり、ぼくはいまそれぐらい、かつて知らぬ幸福と安息のうちにいるということだ。
いつも現実から目をそむけて、ありもせぬ夢ばかり思い描く孤独な少年であったぼくは、学校の帰りによくこの千鳥ヶ淵でボートに乗った。
そして日がな、甘い恋物語ばかりを考え続けていた。

だが、あのころの空はこんなに青くはなかった。
風も濁っており、笹立つ波はごつごつと舟ばらを叩いていた。
おそらく、こうしてぼくを取り巻く風景の美しさと安らぎの分だけ、ぼくはあのころよりも幸福になったのだろう。

美加がオーバーオールの肩をすくめて、小さな溜息をついた。
「ううん……お空をかくのって、むずかしいです。だめだなあ、これじゃ。だめだめ、かき
なおし」

ぼくは身を起こして、艦に座る美加に手をさし延べた。
「どれ、見せてみろ」
美しい妻と、血はつながっていないけれどこんなに可愛い娘とを、ぼくは同時に手に入れた。

このボート場を見下ろす一番町のマンションの最上階で、ぼくらは暮らし始めた。
スケッチブックを手に取って、ぼくは感動した。
クレパスで描かれたものは、広く大きな、ユトリロの空だ。

「どうしたら、お空を大きくかけるの?」
「たくさん描いた分だけ、大きく描けるのさ。おまえはきっとそのうち、ユトリロより大きな空を描くよ」
「ユトリロ、って?」

「家に帰って画集を見なさい。とても大きな青い空を描いた画家だよ」
ふうん、と美加は母によく似た瞳を眩ゆげにめぐらし、桜の花を仰ぎ見た。
「はやくおとうさんのご本に、さしえをかいてあげたいんだけど……」

「あわてるな。時間は十分にある」
「でも、ママもおばあちゃんもあたしも、おとうさんのおせわになりっぱなしだから」
「なにをいつまでもそんな……ママがそう言ってるのか」

「あい。おとうさんのおうちは早死にの家系だからね、なるたけはやくご恩がえしをしない と、まにあわないって」
「ほう……」
遥かに見上げると、番町の木立に抜きん出たマンションのベラングで、体操をする清子の姿が望まれた。

帰ったら両手にダンベルをくくりつけて、手すりから逆さ吊りにするとしよう。
「あのなあ、ミカー」
「あい」

「うちはたしかに早死にの家系だが、おとうさんは別だよ。殺されたって死なない自信はある。うんと長生きして、文化勲章を貰うまでは、決して死にはしない」
「ぶんかくんしょう、って?」
「日本一尊い勲章さ。ほら、あそこに行って─―」と、ぼくは散りかかる花の中に手を挙げて、皇居の深い森を指さした。

「天皇陛下からいただくんだ」
美加はスケッチブックを閉じて胸に抱くと、ふしぎそうに小首をかしげた。
「でも、おとうさんはこのあいだくんしょうをくれるっていうのに、そんなのいらないってことわりました」

「あんなもの、勲章じゃないよ」
携帯電話が鳴った。
花をふり払いながら、ぼくは作務衣のポケットから電話機を取り出した。

〈先生 ! 木戸孝之介先生ですね !〉
鼓膜をブチ破るような金切り声は、丹青出版の荻原みどりだ。
彼女はついにぼくから〈仁義の黄昏・完結篇〉をしぼり取ることに成功し、その論功行賞により、さきごろ副編集長に昇進したのだった。

とたんに死神のような暗い表情は天使のよ.つに明るみ、美容院に通うならわしを身につけ、牛乳ビンの底のようなメガネのかわりにコンククトレンズを入れた。
のみならずストレス性潰瘍も完治し、夜ごと経費を濫用して荒飯を食らっているという噂である。
あんな極道小説なぞどうでもいいが、女がきれいになるのはけっこうなことだ。

[─―なんだ、おまえか。いったい何度言ったらわかる。小説家に電話をするときは、そういう神経に障る声を出すな」
<はい、わかってます ! それはわかってます ! でも、先生、大変なんです、大事件なんです!>
「ほう、そうか。ついに俺の文化勲章受章が内定したか」

〈冗談は顔だけにして下さい。実は、実は一:ああっ、言えない。こんなこととても言えない一っ!〉
電話の声は近い。
ぼくは受話器の中に今にも死にそうな荻原みどりの息づかいを聴きながら岸辺を見渡した。
案の定、ボート小屋のテラスに、受話器を抱いたままババア座りにうずくまる女の姿が認められた。

 

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