嘘つきアーニャの真っ赤な真実
著者

米原万里

出版社
角川書店
定価
本体価格 1400円+税
第一刷発行
2001/06/30
ISBN4-04-883681-1
2002年 第33回 大宅壮一ノンフィクション賞受賞


2002年 第33回 大宅壮一ノンフィクション賞受賞

1960年、小学校4年生のマリは、プラハのソビエト学校にいた。男の見極め方やセックスのことを教えてくれるのは、ギリシャ人のリッツァ。ルーマニア人のアーニャは、どうしようもない嘘つきのまま皆に愛されていて、クラス1の優等生はユーゴスラビア人のヤスミンカだ。30年後、激動する東欧で音信の途絶えた彼女たちと、ようやく再会を果たしたマリが遭遇した真実とは―。

ただでもらった馬の歯を見るものではない─「贈物にケチをつけるな」という意味のロシアの諺である。
もっとも私は、諺の戒めの意味するところよりも、馬を品定めするときの決め手が歯であるという生活の智恵のほうに感心してしまう。
市場に馬を買いに来た人たちが、「おっ、これはっ」と目星をつけた馬に近付いて行くと、売り主は、まず何はさておき馬の上下の唇(という言い方をしていいものかは別として)を歯茎のあたりまでめくり上げて見せる。
次に鼻面をむんずとつかんで口をこじ開ける。
「どうです、だんな、文句の付けようがないでしょう」
歯には馬の健康状態が如実に反映される。
それに、老いるほどに歯は摩耗していく。
ババをつかまされないように、買い手のほうは、歯の一本一本に食い入るような視線を注ぐ。
丁々発止の値段交渉が始まるのは、それからだ。そんな風景が浮かんでくる。
そして必ずリッツァのことを思い出す。
リッツァは、一九六〇年一月から一九六四年一〇月までの約五年間、私が通っていた在プラハ・ソビエト学校の同級生である。
ギリシャ人。
リッツァの父親は、軍事政権による弾圧を逃れて東欧各地を転々とし、チェコスロバキアに亡命してきた共産主義者だった。
リッツァの両親が、祖国ギリシャを後にしたのは、第二次大戦直後のことであったから、リッツァやリッツァの兄ミーチェスが生まれるよりも前のことだ。
ミーチェスはユーゴスラビア生まれ。
リッツァは、一時期両親が身を寄せたルーマニアの何とかいう田舎町に生まれ、五歳のときに家族とともにプラハに移住してきた。
なのに、まだ一度も仰ぎ見たこともないはずのギリシャの空のことを、「それは抜けるように青いのよ」
と誇らしげに言って、長いまつげに縁取られた真っ黒な瞳を輝かせる。
それから、まるで遥か遠くのギリシャの空を仰いでいるかのようにウットリと目を細めるのだった。
コ点の曇りもない空を映して真っ青な海が水平線の彼方まで続いている。波しぶきは、洗いたてのナプキンのように真っ白。
マリ、あなたに見せてあげたいわ」
何度、リッツァから聞かされたことだろう。
そのたびに、いつもどんよりと灰色の雲が垂れ込めたプラハの空の下で、帰ることのできない故国への郷愁を募らせるリッツァの両親の姿が浮かんでくるのだった。
リッツァの父親と私の父の職場は同じだった。
『平和と社会主義の諸問題』という雑誌の編集局。
雑誌は、国際共産主義運動の理論誌ということになっていた。

本文P.6,7より

 
 

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