PARK LIFE パークライフ
著者

吉田修一

出版社
文藝春秋
定価
本体価格 1238円+税
第一刷発行
2002/08/30
ISBN4-16-321180-2
第百二十七回芥川賞受賞作!! 他人だから、恋がはじまる――

■文学賞
2002年 第127回 芥川賞受賞

地下鉄で人違いして話しかけた不思議な女との偶然の再会が、僕の好奇心に火をつけて……。男女関係の“今”をリアルに描く傑作!

日比谷交差点の地下には、三つの路線が走っている。
この辺り一帯を、たとえば有楽町マリオソピルを誕生日ケーキの上飾りに讐え、上空から鋭いナイフで真っ二つに切ったとすると、スポンジ部分には地下鉄の駅や通路がまるで蟻の巣のように張り巡らされているに違いない。
地上のデコレーショソが派手でも、中身がすかすかのケーキなど、あまりありがたいものではない。
改札を抜けて、清掃中の濡れた床に注意しながら日比谷公園出口へ向かった。
まっすぐに延びる地下通路の天井は低く、歩けば歩くほど自分の身長が縮んでいくように思える。
途中、振り返ってみたが、一緒に電車を降りたはずの女の姿はそこになかった。日比谷線の車内でちょっとしたハプニソグが起こった。
しばらく霞ヶ関駅に停車していた電車が、説明のアナウンスも特にないまま空調を切り、まったく動かなくなってしまったのだ。
場所が場所だけに何か異臭がしないかと辺りを嗅ぎ回りたくもなる。
どれくらい停まっていたのか、ぼくはドアに凭れたまま、ガラス窓の向こうに見える日本臓器移植ネットワークの広告をぽんやりと眺めていた。
広告には『死んでからも生き続けるものがあります。それはあたたの意思です』と書かれてあった。
よほどぽんやりしていたのだと思う。
すでに六本木駅で電車を降りた先輩杜員の近藤さんが、まだ背後に立っていると錯覚していた。
「ちょっとあれ見て下さいよ。なんかぞっとしませんか?」
ガラス窓に指を押し当て、ぽくは背後に立つ見知らぬ女性に笑みを向けてしまった。
辺りの乗客たちが一斉にぼくを見た。とつぜん話しかけられて、その女性もきょとんとした。
しかし、乗客たちのあいだで失笑が起ころうとしたとき、「ほんとねえ、ぞっとする」と、その見知らぬ女がガラス窓の外へ目を向けて、平然とぽくの問いに答
えたのだ。
今度はこちらがきょとんとなった。
「……死んでからも生き続ける私の臓器ってイメージがちょっと怖いっていうか、不気味な感じするよね」
女は続けてそう言った。
まるで十年来の知り合いに話すような口ぶりだった。赤面で済んだものが、腋の下にじとっと汗まで湊んだ。
乗客たちは、しばらく言葉を交していなかっただけで、この二人は知り合いなのだと判断したらしく、すでに興味を失っていた。
電車はその後もしばらく停車したままだった。
女は何ごともなかったかのように、中吊り広告を眺めはじめ、ぽくはぼくで、なるべく目が合わないようにガラス窓に顔をはりつけ、早く動いてくれ、と心のなかで祈った。
細い地下通路を抜け、日比谷公園出口への階段を駆け上がる。
店舗営業の途中に、ほとんど毎日この階段から公園へ出ているのだが、この通路で誰かとすれ違ったという経験がない。
地下鉄の出口にも、数寄屋橋口のような花形もあれば、ここのように人気のない出口もあるのだろうが、こう毎回一人きりだと自分の名前がこの出口についてもおかしくはない。

(本文P.7〜9)

 
 

このページの画像、引用は出版社、または著者のご了解を得ています.

当サイトが引用している著作物に対する著作権は、その製(創)作者・出版社に帰属します。
無断でコピー、転写、リンク等、一切をお断りします。

Copyright (C) 2001 books ruhe. All rights reserved.