ハリガネムシ
著者
吉村万壱/著
出版社
文芸春秋
定価
本体価格 1143円+税
第一刷発行
2003/08
ISBN 4-16-322340-1
 
戦慄の第129回芥川賞受賞作! 無性に酷いことがしてみたくなる・・・・・怖い。底辺を這いずる女と、高校教師。血を流し、堕ちた果てに・・・・。
 

第129回芥川賞受賞作!あの女のために異界に堕ちたのか?いや、身の内にうごめくハリガネムシのせいではないか?驚愕・衝撃の問題作、ついに登場!怖ろしくていとおしい物語。



耳の中に蚊が突っ込んできた。
突然の狂ったような巨大な羽音に反射的に耳殻を叩き、ブルッと身震いすると全身に鳥肌が立った。
工事現場特有の挨臭さの中で、私はじっと息を殺していた。
時折吹く風が剥がれたトタン塀を揺らし、金属が擦れ合う嫌な音が尾を引いた。
見上げると建設中のマンションを覆う萎れたブルーシートが、無数の雛を伸ばしながらゴボゴボと膨らみ、遥かな高みに浮いた小さな月を隠した。
「うらっ」と又声がした。
墨のような闇の中に、複数の人影が轟いていた。
砂袋を叩くような鈍い音、規則的なリズムを持った湿った音、くぐもった微かな声に全身で聞き入りながら、私は立て掛けられたコンパネの陰で蹲り、ネクタイを緩めて有らん限りの妄想を描き続けた。


1

アパートに戻り、少し眠った。
嫌な感触に目を覚ますと、鼻の上を何かが這っている。
ゆっくりと針金のような物が動いているのが見え、「わっ」と叫んで自分の顔を叩き、眼鏡ごと吹っ飛ばした。
見ると五センチ程のカマキリが畳の上に着地して体を斜めに保ち、小首を傾げてゆっくりと鎌を持ち上げている。
工事現場から連れ帰ったものらしい。
腕時計を見て慌てた。
「亀の湯」は十一時で終わる。
跳び起きてカマキリの上にコップを被せ、洗面器をひっ掴むと猛ダッシュを掛けた。
小銭を台に叩き付けると、番台の老婆は「また滑り込みか、あんた」という顔で見下ろしてきた。

(本文P.3〜4 より引用)


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