“恵比寿像の顔が赤くなるときは、恐ろしい災厄が襲う”明治十年。一等巡査の矢作剣之進は、ある島の珍奇な伝説の真偽をめぐり、友人らと言い争いになる。議論に収集はつかず、ついに一同は、解を求め、東京のはずれに庵を結ぶ隠居老人を訪ねることにした。一白翁と名のるこの老人は、若い頃、百物語開板のため、諸国の怪異譚を蒐集してまわったほどの不思議話好きだという。翁は、静かに、そしてゆっくりと昔の事件を語り始めた。鈴の音とともによみがえる、あの男の声を思い出しながら。「御行奉為──」
昔。 小さな島が御座いました。 その島には、あまり裕福ではない人人が、細細と身を寄せ合って暮らしておりました。 貧しくとも平和な島で御座いました。 島の一角には古い、小さな鎮守のお社があり、そこには何時の頃からか、蛭子神がお祀りされておりました。 島民達はそのお社を心の拠り処とし、熱心に信心していたので御座います。 ただ、島にはひとつの言い伝えが御座いました。 それはそれは、兇ろしい言い伝えで御座います。 蛭子神のお社には、ご神体として一体のゑびす様の像が安置されておりました。 そのゑびす像のお顔が赤うなる時は、島を兇ろしい災厄が襲う、ゑびす様の面色が赤色に染まった時は、島が滅ぶ時なのだと、そう伝えられていたので御座います。 誰もその言い伝えを疑うものは御座いませんでした。 何故なら、島民達は蛭子様を心から崇めていたからで御座います。 島民達は朝夕の参拝を決して欠かすことなく、ことある毎にそのお社にお参りをして、慎しく暮らしていたので御座います。 しかし。 ある時───。 ひとりの若者がおりました。 血気盛んな若人で御座います。 若人は、因習に雁字搦めに囚われている島の気質に厭気が差しておりました。 貧しい暮らしに飽いてもおりました。 諾諾と日日を送り不平のひとつも言わぬ島の人人に落胆してもおりました。 そこで。 若者は悪戯をしたので御座います。 こともあろうに夜半に鎮守の社へと忍び込み、ゑびす様のお顔に赤赤と朱を塗りつけたので御座います。 朝になり、お顔が赤くなったゑびす様を見た島民は大いに樗き、惧れ、慌てふためいたので御座います。 誰もが信じておりました。 心から信じておりました。 だから泣いて叫んで、大いに乱れ、結果島民の凡てが僅かな家財を纏め、家族を引き連れて島を出たので御座います。 若者はその様子を愉快に見守りました。 何しろお顔に色を塗ったはこの自分。 何が起きよう筈もない。 ナニ迷信じゃ、凡てはまやかしじゃと、腹を抱えて笑うておりました。 ところが。 島民が島を離れて幾もなく。 突如天地鳴動し、山は崩れ大地は揺らぎ、大津波が押し寄せて、若者諸共その島を呑み込んで仕舞ったので御座います。 島は、一夜にして跡形もなく消えてしまいました。 そして荒涼たる海原だけが残ったので御座います。
(本文P. 7〜9より引用)
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