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 邂逅の森
著者
熊谷達也 /著
出版社
文芸春秋
定価
税込価格 2100円
第一刷発行
2004/01
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ISBN 4-16-322570-6
 
2004年 第131回 −直木賞受賞  2004年 第17回 −山本周五郎賞受賞  「家に帰って、妻の手を握りたい」熊に足を喰われ、朦朧とする意識の中で富治はそのことだけを考えた。奔放に生きてきた富治を巨大熊に向かわせたものは何か。俊英がおくる感動の物語。
 

本の要約


≪第131回直木賞受賞作品≫大正年間、身分違いの恋から故郷を追われたマタギの青年、松橋富治の波乱の人生を描く。自然に対する畏敬の念あふれる雄大な物語。



オススメな本 内容抜粋

第一章

寒マタギ


獣を殺す旅だった。
大正三年の冬、松橋富治は、年明け間もない山形県の月山麓、肘折温泉から深く入り込んだ山中で獲物を追っていた。
連なる山塊は、見渡す限りの雪また雪。目につくものといえば、葉を落として風雪に耐えているブナの木々くらいのもの。
轟く生き物を拒絶しているように見えるこの世界にも、やがて時が来れば、雪解けとともに春がやってくるとは、とうてい信じられない光景である。
しかし、この山にも、よくよく目を凝らして岩の忍耐を持って見つめれば、深緑の季節とまったく変わらぬ数の獣がいる。
その中には、地中で息をひそめ、採食を断つことによって生き残りの戦略を獲得した獣がいる。
一方では、人間には食えないものを消化する胃を備え、幾度も反留しながら飲み下して命を繋ぐ獣もいる。
「アオ、いだぞうっ」
昼にさしかかったころ、富治が身を置く狩猟組、善之助組の頭領を務める鈴木善次郎が、沢をひとつ挟んだ岩場に、一頭のアオシシニホンカモシカを見つけた。
アオシシがいる岩場の周囲は急峻な崖になっていた。
いかに雪山に慣れている富治らといえども、そう簡単に接近できないだろうことは、善次郎に促されてもう一人の仲間、柴田万吉と一緒に目を向けた時からわかった。
ふだんなら見送り、別の獲物を探していたところだ。
だが、ここ肘折温泉のマタギ小屋に到着してからすぐ、猟場としている山々が猛烈に吹雪きはじめて、猟に出られない日が三日も続いた。
ようやく天候が回復した初日である。
どうしても今日中に最初の獲物が欲しかった。
額を寄せて相談した富治たちは、失敗を覚悟のうえで試してみることにした。
話が決まれば動きは早い。三人のマタギは、ほとんど言葉を交わすことなく、自分たちが立っていた尾根を風下、沢の上流側に向かって移動しはじめた。
アオシシがいる岩場から死角になる位置で一度沢筋に下り、新雪に腰まで埋まりながら再び対岸の斜面にとりつく。
まともには獲物に近づかない。接近する人間に危険を覚え、尾根を越えられてしまっては追跡が困難になる。
登りだけは、どう頑張っても四つ足にはかなわない。
アオシシが逃げる前に岩場の上に位置する尾根筋に回り込み、上から谷底に向かって追い落として仕留める。
それがアオシシ狩りの基本である。クマの場合、人に追われれば斜面の上へと逃げるのが常だが、アオシシは必ずといってよいほど、下へ下へと逃げていく。雪中の下りであれば、人聞でも追いすがることが可能だ。巻きにかかる最初の位置さえ間違訳なければ、アオシシといえども容易には脱出できない吹き溜まりか、雪の下に隠れている沢の窪みへと追い落とせる。
とはいえ、三日間降り続いた新雪には、さすがに難儀した。
体中が汗ばみ、湯気を立てて目当ての位置に到着した時には、最初にアオシシを発見してから、『時間近くが経っていた。
それでもアオシシは、同じ岩棚から一歩も動かずにいた。今いる場所が最も安全であることを知っているからだ。
しかし、それであきらめていたのでは、マタギ稼業は務まらない。
雪もつかない絶壁の岩場を覗きこんでいた善次郎が、「おめえが鳴れ」と万吉に言い、次いで富治に「おめえが叩げ」と指示をした。
顔には出さずに、富治は胸中で安堵の息を漏らした。自分に勢子の役が回ってこなかったからだ。岩棚からアオシシを追い出すためには、目も眩むような岩場伝いに接近しなければならず、一歩問違えれば奈落の底へ転落する。
今年で数えの二十五になった富治よりも、万吉のほうが五歳ばかり年上だった。通常ならば年少の自分が勢子をやるのだが、あまりに険しい地形を見て、善次郎は配置を逆にしたのだろう。
それは万吉も承知のうえで、嫌な顔ひとつせずに、編笠の下でにやりと口の端を吊りあげてみせた。
頭領の命令には絶対服従ということもあるが、三人の中では岩場を歩く技術が最も優れているとの自負が、万吉にはあるのだ。
凍りついた岩棚を目指して下りはじめた万吉を残し、富治は善次郎と一緒に、岩場が途切れてブナ林へと変わる境界へと急いだ。
善次郎に「此処がら叩げ」と言われた場所で、富治は腰に挿していた長さ三尺あまりの小長柄を手にし、雪の斜面を五間ばかり下りて足場を固めた。右手を見やると、さらに二十間ばかり先の見通しが利く位置に足場を定め、準備はできたかと、善次郎が合図を送ってよこした。
白い稜線の上、真っ青な空を背景に、ゆったりと構えている善次郎の立ち姿を目にした富治は、ムカイマッテとして申し分ない位置だと、あらためて頭領の技量に感心した。

 

 

(本文P. 7〜9より引用)


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