一九九八年九月一日、札幌家庭裁判所に一通の「失踪宣告申立書」が提出された。
申立人は涌井耕治、不在者は涌井裕里子。「申立の実情」に記された文面は以下の通りである。
一 申立人は不在者の夫です。
二 不在者は一九九一年三月一日午後四時ごろ、買い物に行くと言って外出したまま帰宅しませんでした。申立人は警察に捜索願をするとともに、親戚、知人に照会して不在者の行方を探しましたが、その所在は今日まで判明しません。三不在者が失踪して七年以上も経過し、申立人の許に不在者が帰来する見込みもありません。そこで、不在者との婚姻を解消するために、この申立てをした次第です。
一九九一年三月一日、妻がひとりで失踪したのではないことを、夫は承知していた。
忘れもしない七年前のあの日、正午すぎに入った電話はあの男からかかってきたものにちがいなかった。
電話に出た妻は返事もせず、即座に切った。
夫は電話の相手に気づいて、一瞬顔色を変えたが、妻の対応に満足し、黙ってうなずいてみせた。妻もうなずいた。
確かにうなずいたように見えた。だが、妻は夕刻に買い物に出たまま、二度と戻らなかった。
実のところ、妻はこれ以前にも三か月だけ失踪したことがある。
だが、そのような妻の不徳を家事審判官に示すことに、いかなる意味も必要もなかったため、この事実は伏せられた。
申立てに際しては、妻の生死不明を証する「戸籍附票謄本」などを添付すれば、それで十分だった。
札幌家裁はこの申立てを受け、「失踪に関する届出の催告」の手続きに入る。
不在者から生存の届け出がない場合、八か月後の一九九九年五月、失踪宣告がなされ、不在者の死亡が法的に認定されることになる。
第一章 春
1990年3月
午後一時、俊介はアパートを出た。
マフラーに顔を埋め、両手で自分の身体を抱ぎしめるようにして、北大通りを足早に南へ向かう。
正面から冷たい風が吹ぎつけ、目を開けているのもつらい。
ちぎれ雲がものすごい速度で空を渡り、フレンチレストランの屋根にとりつけられた風見鶏がくるくると回っている。
この冬は山間部ばかりか札幌市内でも重たい雪が降りつづいた。
三月もなかばだというのに、北大のキャンパスは雪でおおわれ、ハルニレの樹下にはまだ一メートル近く積もっている。
大学病院の裏手では数人の男たちが雪の底から道を掘りおこしている。
俊介は湿った水雪を踏み歩きながら、セイコーマートの店内に目をやった。
レジには顔見知りの主婦のパートが立ち、店長は雑誌ラックの整理をしている。
あわてて顔を伏せ、店の前を小走りになって通りすぎた。
風邪をひいたと嘘をつき、一昨夜のパイトを休んだからだ。
セイコーマートのとなりは居酒屋まさもと、そのとなりは食堂だいまる。
北大通りには飲食店や古本屋や受験生相手の旅館が軒をつらねている。
居酒屋弁財船、古本の弘南堂、おさむら旅館、ホテル恵びす屋、喫茶アップサージ……。
俊介は北大軒の前で足をとめた。
暖簾が出ていない。暗い店内をのぞきこみ、唇をかんだ。
この二日間、俊介はほとんどなにも食べていない。
たぽこに火をつけてはため息をつき、ウーロン茶を飲んでは洟をすすりあげ、アルバムをあくっては枕に顔を押しつけ、そうして二日間をやりすごし、ようやく外に出る気になった。
北大軒のラーメンでも食べて、元気を出そうと思ったのだ。
ドアに下がった臨時休業のプレートを指先ではじき、俊介はふたたび歩ぎだす。
背中をまるめ、前かがみになり、どんどん足早になる。
厚手のセーターを着ていても、編み目から冷気がしのびこんでくる。
きょうの最高気温はマイナスニ度だという。
─風邪がたいへん流行ってますね、みなさんは大丈夫ですか。それでは気をつけて行ってらっしゃい!
ようやく睡魔が訪れてぎた午前七時、つけっぽなしのテレビのなかで奥村陽子が手をふった。
「陽子さんたら性格いいし、ほんと感激しちゃった」
テレビ局の入社祝いに俊介は大枚をはたいてフランス料理を奮発したが、賀恵は人気の女子アナに会った感想を誇らしげにしゃべりつづけた。
「報道じゃなくてボっかりなんて言ったけど、アナウンス部でほんとよかったなって、陽子さんを見てね。安達くんタイプでしょ、わかるよ、そのくらい」
女子アナ。
けっこう卑猥な響きだ。俊介はそう思い、そんな自分にうんざりする。まぬけでスケベで、暗くて卑屈で、未練がましくて。
「すいませーん」女の子が声をかけてきた。
俊介は足をとめ、カメラを受けとった。
クラーク民芸社の前にならぶ三人組を、ファインダーごしにのぞく。
まんなかの女の子がとてもきれいだ。
木彫りの海賊人形を頬によせ、涼しげに笑っている。
両脇の子は彼女の引ぎたて役を楽しんでいる。
俊介はシャッターを押し、太っちょの女の子にカメラを返した。
「地元の方ですかあ〜」
俊介は首をふり、そのまま歩きだす。
いつもなら会話のひとつもかわすのだが、ぎょうはとてもそんな気になれない。
駅のガードをくぐり、京王プラザホテルを左に折れ、駅前通りに出た。
アカシアの並木が寒々しい。
見上げると胃袋がきゅっと縮みあがる。
賀恵がなにを言いだしたのか、初めはちっともわからなかった。
それは一昨日の夜のことだ。
入社前の研修旅行から戻った賀恵とひさしぶりに迎えた週末だった。
「なぜ」と俊介は訊いた。
彼女はふりむくと、俊介の唇に指を押しあてた。向かいあって立つ恰好になった。
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