人は親しい相手をよく知っていると思い込みがちだが、案外それは正反対なのだろう。親しくなればなるほど、その人をより深く知るべきであり、知る努力を継続すべきにもかかわらず、親しいと自覚した途端に実は無関心になるのかもしれない。
六年間も一緒に暮らしている妻にしてもだ。
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二枚目の肉をてんぷら鍋に落とし込んだ、ちょうどその途端に電話が鳴った。
普段は子機をダイニングテーブルの上に載せて料理に取りかかるのだが、絹子が海外に出ているということもあって今日は寝室に置いたままだった。
浪ったベニバナ油のなかで盛大に泡立っているカツを見つめ、容赦なく鳴り響くベルの音に昂一は小さく舌打ちした。
菜箸をバットの上に戻し、急ぎ足でキッチンから近い書斎の方に向かう。
いま時分、絹子はとっくに飛行機に乗っているはずだ。
由香里には今夜からは携帯にかけてくるよう念を押してある。
その携帯はちゃんとズボンの尻ポケットだ。
一体誰からだろう、と思いながら昂一は書斎に入り、親機の受話器を持ち上げた。
聞こえてきたのは絹子の声だった。
「もしもし、昂ちゃん、わたしだけど」
周囲がずいぶん騒々しいようで言葉が聞きとりにくい。
「どうしたの。もう雲の上なんじゃなかったの」
そう訊ねると、飛行機のエンジントラブルのためシンガポールで足止めをくい、今夜中には帰れそうもない、と絹子が言った。
空港カウンターの喧騒の中でかけているらしく、例によって苛立った口調になっている。
絹子は飛び抜けた聴力の持ち主で、その分、騒音にはひどく神経質なのだった。
この国分寺のマンションを購入したときも、道路側に面した壁はすべて防音用の窓に交換したくらいだ。
もっとも自慢のその耳のおかげで、語学には堪能だし音感も優れている。
英語はむろんのこと、大学時代から始めたというフランス語の方もいまや通訳なみの力量を彼女は身につけていた。
「今晩はトランジットでここに泊まって、明日帰ることにするわ」
「わかった。あんまり無理するなよ」
それだけ言うと、昂一はカツが焦げ過ぎないかと台所の鍋が気になったので、手短に由香里が子供を産んだことだけ言い添えて電話を切った。
キッチンに戻ってみると案の定、二枚目のカツは黒くなってしまっていた。
一枚は自分用にサンドイッチし、もう一枚で由香里の分を作って届けてやろうと思っていたから、当てがはずれてがっかりだった。
仕方がない。
夕食は病院の行きがけに外ですませるとして、きれいに揚がった最初の一枚で彼女の分だけこしらえることにする。
カツサンドは昂一の自慢料理の一つだ。
薄いロース肉二枚の間にチーズをはさみ、青のりと少々のカレー粉、それに白ゴマをまぜた自家製のパン粉をまぶして新しい油でからっと二度揚げする。
「おたふくソース」に粒マスタードをたっぷりと溶いたものを薄く塗って、トーストした食パンにサンドする。
それだけなのだが、これが香ばしくて旨い。
絹子が徹夜する日など、彼女の部下たちの分までたくさん作ってたまに持たせてやるのだが、すこぶる評判がいいと聞いていた。
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