吉本ばなな 自選選集 ・ オカルト ・
 
 
  勘が何かわかってしまうということの寂しさ。  
著者
吉本ばなな
出版社
新潮社
定価
本体 1800円(税別)
ISBN4−10−646302−4
デビュー以来の小説を著者が選び、テーマ別に編集。吉本文学の全貌を全四巻に集成した決定版作品集。

 

目次

アムリタ

***++* *メランコリア

*****アムリタ

***** ++ 77+何も変わらない

ある体験

血と水

 

ハードボイルド

***1 祠

***** 2 ホテル

* *3 夢

*** -**4 訪問者

** -***5 畳部屋

***- **6 再び夢

-*** **7 朝の光

血の色

オカルトと私....あとがき

 

書き下ろし短編小説

血の色

 

その午後、銀座四丁目の交差点に立っていた時、おばさんから電話がかかってきた。そして、 おじさんの入院についての知らせをもらった。検査の結果、頭を打ったことは彼の体に何の影響 も与えていないという知らせだった。 おじさんは意識もしっかりしているし、念のためにした検査だったから、ほとんど心配してい ないつもりだつた。

でもいかに自分がはりつめていたのか、おばさんからかかってきた電話を切 ってからはじめて気づいた。 私の実家は静岡だが、十八の時に地元のお金持ちの息子とのお見合いを勧められ、いやになっ て当時のボーイフレンドといっしょに東京に出てきてしまった。そのボーイフレンドとはすぐ別 れたけれど、母の弟であるおじさんとその妻であるおばさんを頼って、ふたりがやっている雑貨 屋でバイトさせてもらったり、保証人になってもらって部屋を借りたりして、実家に戻らずにひ とりだちしていくことに決めた。

親戚というわくに甘えずに七年間猛烈に働いたので、おじさん もおばさんもすっかり信頼してくれて友達みたいな感じになった。父と母も私に戻ってきて結婚 しろとは言わなくなり、たまに遊びに来て、私の小さい部屋に泊まって行くくらいに関係は回復した。 おじさんの入院は、東京にいられるのはおじさん夫婦のおかげだということが、身にしみてわ かった瞬間でもあった。

おじさん夫婦が若くてよく働いて気持ちに余裕があって、そして私があの人たちをほんとうに 大好きで、あの人たちも私を大好きだから、そんな簡単なあたりまえのことがあるからお互いが いっしょにいられるのだ、ということがまるで湯たんぽをあてているように日々実感として胸に じんわりとあたたかく広がってきた。 おばさんに今から病院に向かうと告げて通話を切り、携帯電話をしまった。ふと空を見上げ、 ふいに花のようないい香りを感じた。かすかに甘い、誰かの香水の匂い。

少し重くて、かすかに 熱っぽいような匂い。尖っていなくて全てがふにゃふにゃと柔らかい花の香り、いつかかいだ野 の花みたいな清潔な香りだった。なんていい匂いだろう?そんなふうに何かを快く感じたのは ほんとうに久しぶりのことだった。 それをきっかけにはっと目が覚めたような感じがした。まわりじゆうにざわざわしている信号 待ちの人々が、私と同じ生きている人間なのだ、と久しぶりに思った。 それぞれが思い思いの服装に身を包み、それぞれの目的地に向かっている。

不思議な天気だった。空は晴れていて、雲は淡い光を放つ太陽を抱いて柔らかく光っていた。 それなのに空からは大粒の雨がぼたぼたと降りそそいでいた。地面のところどころには光がさし、 濡れた道路を金色に染めていた。そんなことを美しいと思ったのも久しぶりだった。 気づくとなんとなく灰色だった世界に色が戻ってきていて、あたりの全てがうっとりするよう な優しい色で満たされていた。薄いピンク、オレンジ、淡いグレーと白。濡れて黒い道路の上に 夏服を着たきれいな人々が花を咲かせていた。

空にはやっぱり空にあるべき全ての色があった。 どれも淡く、光に包まれていた。この世は色の洪水だ、と久しぶりに気づいた。立ち並ぶビルの 窓にもいちいちその色彩が映りこんでもうひとつの世界を描き出していた。 私は傘もないのに、濡れてもなぜか少しもみじめな気持ちにならず、濡れていくブラウスや透 けていくであろうブラジャーのことも少しも気にならずに、今にもぽかんと口を開けそうな感じ で世界に見とれていた。

そうしている間にもどんどん空気がうるおっていった。からからだったほんの少し前の時間か ら解放されたように、雨は街中の樹木をうるおわせた。降りそそぐ金の光は人々の顔に手にあた たかかった。 突然「待っている間だけでもどうぞ。」ととても品のいいスーツ姿の女性がにっこりして傘を さしかけてくれた。「ありがとうございます。」と私は傘に入れてもらった。きれいな横顔を見上 げて、さっきのいい香りがこの人から来ていたことを知った。信号が青になり、ふたりで交差点 を渡った。そしてお礼を言い、別れた。

今日の突飛な天候が生み出した美しい風景も、いい匂い も、見知らぬ人の小さな親切も全部が調和しているように思えた。 それから大きな虹が出た。 病院にたどりついた私はおじさんおばさんといっしょに、病室の窓からもうすっかり見なれた風景の上にうっすらかかる虹を見た。面会時間が終わり、帰りは、おばさんとふたりでタクシーに乗った。私が東京に来てからのいろいろな思い出を、ふたりはあらためて語ってはげらげら笑った。お互いにほっとして気分が高揚していたのだろう。そしてゆるんでいく気持ちと共に、古くさいネオンが輝く上野の街がゆっくりと窓の外を流れていくのを見ながら、なぜか私は突然甘い気持ちになった。

つい昨日まで何もかもをきついことだと感じていたのに、その時ふいに、出会ったり、別れたり、生きたり、死んだりすることは全然悲しいことじゃないような気さえした。決して覚めないよい夢の中にいるような感じだった。大好きなおじさんやおばさんに何かあったらどうしょう、そんなことになるなら、私が先に死にたいと私はいつも思っていた。それはよくしてくれる人たちのためにがむしゃらにがんばってきた私の切羽詰まった感情で、たぶん自活しはじめてからはいつも私をとりまいていたものだった。

でもなぜかその時、天から降ってきたようにその苦しい感じは消え、代わりに新しい感覚が私を高いところにふわりと舞い上がらせた。人が死ぬ、それはいつか起こる上に実はそんなにひどいことじゃなくあたりまえのことで、今まで作ってきた星の数より多い楽しい思い出が、こうしてふとしたきっかけで私を優しく取り巻き包み込む瞬間があるということ。

おじさんが今回無事、だったからといって永遠に生きるわけではない、しかし私にとってのその人たちがいつまでもどこでも、幸せなイメージに包まれている限り、それを変えるものはこの世にはきっとないんだ、私にはもう持っているものがあり、それこそが確かなものに違いない。そういうふうな確信だった。その明るいイメージは、気持ちがどん底に落ちている時の悪い想像に匹敵する力を持っていた。なめてもなめても減らない飴みたいに、私は上野の景色に溶けていくそのみずみずしい感情を、おばさんと世間話をしながら味わった。

自分の部屋に帰ったらむしょうにお腹が空いてきたので、久しぶりに家でごはんをたいて、みそ汁も作って、卵も焼いて、たくさんごはんを食べた。お腹が空いたとかお腹がいっぱいだとか、そういう感覚までをもむさぼるような気がした。このところの私は単なる管のようで、もうエネルギーがつきたかと思うとやむなく何かを少し胃に入れるか、人前でがつがつ食べていても何も 感じなかった。シャワーを浴びている時、全身に温かい血がめぐっていくのを感じた。それはち ょうど明るくて温かい光に照らされているような感じだった。

湯上がりにちょっとビールを飲んだら、自分でも驚くほど眠くなった。今にもうたた寝しそうだったので、電話線を抜いてしまい、ベッドにもぐりこんだ。眠りは重い砂の袋みたいに私の全身にぐんにやりともたれかかってきた。温かい猫のように体の冷たい部分によりそってきた。 ああ、やっとぐっすり眠れる、と私は思った。いろいろなことがいっぺんに起きるということはあるものだなあ、と思った。そしてどういう形であれそれは必ず終わる。終わる時はいつもこうやって唐突に終わる気がした。 本文P.619〜623

 

 

吉本ばなな自選選集全4巻

0ccult オカルト

アムリタ

ある体験

血と水

ハードボイルド

血の色(書下ろし)

 

Loveラブ

白河夜船

パチ公の最後の恋人

ハネムーン

大川端奇譚

ミイラ

バブーシュカ(書下ろし)

 

Deathデス

キッチン 満月・・・キッチン2

ムーライト・シャドウ

N・P

ハードラック

野菜スープ(書き下ろし)

 

Lifeライフ

TUGUMIつぐみ

とかげ

おやじの味

新婚さん

ひな菊の人生

哀しい予感

ある光(書下ろし〕

 

 

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